みなさんこんにちは!ゴールデンウィーク明け、にわかに初夏のような空気がただよっていますが、お元気でしょうか☺️つつじがきれいな季節ですね。

毎週月曜日は私、牧師の妻が、聖書の「福音」(聖書が伝える救い!)とは何かについて、4週連続でお送りしています☺️

先々週から先週にかけて、

①創造主なる神(この宇宙、そして人間を造られた神様がおられます)

②人間の罪(人間が神から離れ好き勝手な道を歩んだ結果、この世界に悲しみや死が入りました)

という、4つあるうちの2つのポイントまでを見てきました。

今日はその3つ目、

③救いの道 についてお伝えいたします。

 

◯十字架の意味は? これこそ救いの道!

教会といえば、まず屋根の上に立っている十字架を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。本来死刑道具であるはずの十字架。今では神の愛と救いの象徴として、クリスチャンでない方々もアクセサリーとしてつけたりしていますが、一体この十字架には本来どんな意味があるのでしょうか。

十字架は、罪によって壊されてしまった私達人間と神様との関係を回復する橋渡しのようなものです。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、

キリストが私たちのために死んでくださったことにより、

神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

新約聖書ローマ人への手紙5: 8

人間が神に背いて以来、その「罪」というものが神と人間との間の隔ての壁となり、人は神から遠く離れて歩むこととなりました。

しかし、その「罪」の問題を解決するために、神の子であるキリストが、私たちの罪の代価を支払うためにかかってくださったのが十字架なのです。

神様はきよいお方です。

ですので神は本来、神に背き罪と汚れの中に生きている人間と交わることはできません。

しかし、キリストはまさにその罪と汚れのただなかに来てくださり、私たちのそのすべての罪が赦されるために、私たちの代わりに十字架にかかって死んでくださったのです。

そして、3日後によみがえってくださいました。

キリストは、神のひとり子(すなわち「神」)であるにも関わらず、「人」となりきてくださった私たちのための救い主です。

そのキリストの十字架による罪の赦しを信じる時、私たちは神との関係を回復することができ、神様との愛にあふれた交わりのうちに生きることができる者となるのです!

 

◯神様の道は理解を超えている

ここまで読んでみていかがでしょうか?

はじめての方は特に、全くおとぎ話のように感じるのではないでしょうか。

私自身も、この「福音」をはじめて聞いた時そう思いました。

しかし、考えてみてください。

私たちが存在するこの宇宙そのものが、そして私たちの存在そのものが、はるかに私たちの理解を超えているこの世界。

多くの科学者は、この世界の背後に「創造主」の存在を見るといいます。(詳しくは4.26の記事をご覧ください)

もしこの世界を「創造」した神がおられるならば、

その「救い」の方法が私たちの理解をまったく超えていたとしても、不思議ではないのではないでしょうか

聖書の初めには、端的に、「はじめに、神が天地を創造した」とのことが書かれています。

全く戯言のように聞こえるこの一言に、この世界の物理法則を究めようと躍起になる多くの科学者たちが行き着くのです。

この世界の全て(宇宙創生の次の瞬間から生まれた自然界に働く4つの力)を一つの数式で表そうという、物理学の最終目標と言われる「万物の理論」「統一理論」は、「神がこの世界を創造した設計図」であり、「神の数式」とも呼ばれているほどです。

 

◯子どものように神の言葉を受け入れる

聖書にはこのような言葉があります。

「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

新約聖書ルカの福音書18:17 

私たち人間は、理性や知性によってこの世界のことを追求すればするほど、自分たちの存在の小ささや、かえって自分たちは何も知らないのだということに気付かされるのです。

そして私たちには、自分の力では如何ともしがたい「罪」の問題があります。

(人間の営みや自分自身の内側を注意深く見ていれば、私たちの心にいかに醜い罪が住みついているかということがわかるはずです。三浦綾子さんの『氷点』にはそれが鋭く描かれていますね。)

私たちはそれぞれの歩みの中で、人間をはるかに超えた「神」の前にへりくだり、「子供のように」神様の言葉を受け入れてゆくことが必要なのではないでしょうか。

それは愛なる神様からの招きなのです。

またそれをすることができるのは他ならぬ神の恵みです。

そしてそれは、知性や理性を捨てることではありません。

「創造主」なる神様の、人間の理解をはるかに超えた大きな愛(それは、私たちの罪の身代わりに自ら十字架にかかってくださったことのなかに表されており、神とともに歩むものには)を受け取り(信じることが、受け取ることなのです)その中に歩むことなのです。

親と子が親しく話すように、

また、夫と妻が時に疑いを抱いたり喧嘩をして意見をぶつけ合いながらも、信頼と愛を深めていくように、

生きておられるただひとりの創造主なる神様と、交わり語り合い、ともに歩むことなのです。