マタイの福音書13章

54,それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。

55,この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。

56,妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」

57,こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」

58,そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。

 

「あいつの『母親』はマリヤじゃないか」

この言葉の中には、イエス様の生まれについての偏見が込められていると言われています。ユダヤ社会では「ゼベダイの子シモン」というように「父親が誰か」ということが、その人を見定めるはかりになっていました。そこからすると、イエス様に対して「彼の母親はマリヤ」というのは、「父親はどこのどいつか分からない」という侮蔑が込められていると言われています。処女マリヤによって生まれたとはいえ、イエス様はヨセフの子として生まれました(マタイ1:18〜25)。しかし、それは人々には理解されませんでした。

イエス様がどんなに素晴らしい教えを語ろうと、偉大な奇跡をしようとも、「あいつは私生児じゃないか」という「俺たちはあいつのこと知っているぞ」という偏見が、福音を受け入れるのを邪魔してしまったのです。

 

「あんな若造の言うこと聞けるか」

若い牧者に対して、投げかけられる心ない言葉があります。「お前なんかより俺の方がよく知っているぞ」という思いは、新しいことを知ることを妨げてしまいます。これは誰の心にも起こってくることです。

だからこそ、「あなた方の目は見ているから、耳は聞いているから幸いです。」(マタイ13:16)なのです。イエス様の近くにいた家族も、郷里の人々も、つまずきました。学問的によく知っているはずの律法学者やパリサイ人もつまずきました。しかし、弟子たちはイエス様の語る福音に耳を傾け続けました。それは、弟子が優れているからではなく、やはりただ「幸い」だったのです。

なぜ、私がイエス様を信じることができたのか。理解力があったからか、家で教えられてきたから。そうではありません。そういうものが豊かにあっても、信じない人は信じないし、むしろそれらが邪魔になることさえあります。むしろ、「遠くにいる縁もゆかりもない」と思っていたものに福音は届いたのです。それは、ただ恵みでしかありません。遠いからこそ出会えた。それこそ神の国のあり方でした。

 

遠くにいた「あのマタイ」によって語られた福音

この福音書を書いたと言われるマタイもまたイエス様と同じようにいわく付きの人でした。「あれは元取税人じゃないか」と言われた人です。マタイはその過去を消そうとはしません。彼は自らを「取税人マタイ」(マタイ10:3)と語ります。それは、そのような罪人と呼ばれた自分がイエス様を知ることができた喜びから来ています。その「あのマタイ」がまさに、「御国の弟子となった学者」(マタイ13:52)として語ります。

どんないわく付きの人であっても、どんなに遠くにいるような人であっても、主イエスに出会うことができます。主イエスご自身がまさにそのようにみなされてきた。後ろめたい過去は変えられませんが、その過去をさえ恵みに変えてくださる主イエスがおられます。「あのイエス」を信じた「あのマタイ」が語る喜びの福音書の言葉が、傷つき過去に苦しむ人に届きますように。