こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田です。今年の4月から教会のブログを開始しました。聖書のお話や教会での活動や、牧師が読んでいる本などの紹介をしています。

私たちの教会では今年度から、より「神を知る」ために読書会を開くことにしました。4月からNTライトという神学者の書いた「神とパンデミック」という本を教会の方と一緒に読んでいきます。短い本ですが、関連する本も取り上げながら、多面的に理解できるようになれればと願っています。

今回は最初の章である「1どこから始めたら良いのか」について取り上げ、関連する書籍と合わせて学びたいと思います。

自然災害が起こった原因を古代人はどう考えたか?

今のコロナ禍においても、この自然災害の原因について私たちは色々と原因を考えます。どこかの国のせいか?地球環境のせいか?政府のせいか?私たちは原因を特定して対策するのは有益ですが、飛躍が大きすぎることや、荒唐無稽な陰謀論まで出てきます。

ライトは、このような「自然災害の原因は何か」について古代人たちや哲学者たちがどう考えてきたか取り上げます。それが恐ろしいほど現代の私たちと共通点があります。

まず、普通の人々は「神の怒り」と結びつけます。ギリシャやローマの多神教の世界でも、「何か相応しく犠牲をささげなかったから、◯◯神が起こっているに違いない」と考えたようです。

それに対してギリシャの哲学者たちは次のように考えました。

ストア派ーすべてはプログラムされている。変えることなどできない。何とかうまくやっていくしかない。

エピクロス派ー全てはランダムである。どうしようもない。できる限りそれに馴染みなさい。

プラトン主義ー現在の生活は、実存の影に過ぎない。この地上ではひどいことが起こる。けれども、私たちはこんな世界と違った世界にいくように運命でづけられている。

これを読むときに、クリスチャンは思わないでしょうか。「どれも教会の中で誰かが考えていそうなことだ」と。

 

似たような反応をするクリスチャンたち

コロナ禍のみならず震災や原発問題などがあった後に、同じような反応がたくさん見られました。

①「これは神の裁きだ!警告だ!」

言いたい気持ちはわからないでもありませんが、このライトの本を読んでよくわかるのが、「多神教の人々でも同じように考える」ということです。人間の古くからの一般的な反応だとわかります。これについては次の「旧約聖書から読み取る」以降で却下されていきます。

②「全部神様の御計画の通りだから、しょうがないよ」

神様の御計画があることはわかります。そのことは当然信じていますが、この「御計画だから」で思考停止してしまうところがあるかもしれません。病気でたくさんの人が死んでいってしまっている状況で「神様の御計画だから」で片付けてしまうのは、あまりにも乱暴ですし、そのように神様が考えてほしいと思っているようには思えません。

③「たまたま起こっただけで、どうすることもできないから、慣れよう」

今度は反対に神様を全く抜きにしてしまう反応も起こります。「裁き」とも「御計画」とは思えない。これは偶然で、仕方ないと諦めて順応しようとしてしまう。新しい環境に順応すること自体は大事なことかもしれませんが、「本来こうであっていいのか?」という視点に欠けてしまいます。たくさん失業者が出ても「仕方ないよ、運が悪かったね」だけで済ませていいのか。そのことが問われます。

④「この地上はどうせどんどん悪くなって滅びるよ。でも、天国あるから平気」

結構多くのクリスチャンが今回のコロナ禍についても、「世の終わりのしるし!」と捉えているようです。この考え方をする人たちの問題として「この地上はどうせ滅びるんだから、良くしようとするのは無駄な努力」というところがあります。天国が本当の世界で、地上は滅びる影に過ぎないというのは実はプラトン主義であって、聖書全体の信仰とは異なります。

 

「神様、この状況で私は何をしたらいいですか?」ー問いの変換

ライトはクリスチャンは「なぜこんなことが起こるのか?」という問いではなく、「私にできることは何ですか?」という問いこそ初期クリスチャンの姿勢だったことを語ります。

紀元3世紀ごろのローマでの数々の疫病の中で、クリスチャンたちが見せた病人や弱い立場のものたちへの積極的な働きかけは、まさに「神様、私は何をしたらいいですか」という問いと、そこからの行動でした。

結果として、ローマでクリスチャンの生存率は他の人々よりも非常に高かったのでした。病人の看病をした結果、死んでしまう人も当然いましたが、逃げずにそこに止まったことで、免疫を獲得していったと考えられています。また、病気になっても水一杯だけでも、もらえれば助かった病人たちもいたのです。

クシュナーというユダヤ人のラビが書いた「なぜ私だけが苦しむのか」という本の中では、不条理な出来事について多くの考察がなされますが、その過程で導き出されるのは、「なぜ、こんなことが起こったのか?」という問いを越えて「こうなった今、私はどうすれば良いのか?」という問いの変化です。

私たちには原因がわからないことがたくさんあります。私はまず「なぜ、こんなことが起こったのか?」と問いかけ、ストア派的に考え、エピクロス派のようになったり、そしてプラトン的になったりするのは自然だと思います。全部通る必要があると思います。しかし、どれにも納得せず、問いを変化させていく。この過程が必要だと思っています。

一足飛びに、正解に辿り着く必要はないと思います。じっくり考え、そして前に進む。そして、現実逃避するのではなく、現実に飛び込んでいく。現実に生きる。神の国はどこかにあるものではなく、私たちのただ中にあるとイエス様が語られている通りです。ここで神の国に生きていきます。

私の考えは果たして「聖書的」なのか?

今回のところは、聖書が語ることに入る前の前段階のところです。しかし、この前段階はとても重要だと思います。というのも、多くの人が自分は「聖書的」に考えていると思っていますが、実はとても「異教的」なことが多いということです。

異教的だから悪いということを言いたいのではありません。現実を考察するヒントになります。しかし、「自分は聖書のみ!」と思っている人の考えが、実は別のものがベースにあるということがよくあるのです。だから、このようにギリシャ哲学など異教の考え方に触れることで「同じように考えてた…」と知ることは大事です。その上で、「本当に私の考え方は『聖書的』なのか?」という問いかけを自らにする必要があります。

自分の考えを絶対視せず、ふるいにかけながら、神様の願っておられる姿に変えられていくことを願っています。