こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。

17回目はミルトス編集部編「ユダヤ・ジョーク 人生の塩味」です。神学校に、説教のたびにユダヤ・ジョークを教えてくださる先生がおられました。神学校の4年間、その先生の説教を聞くのがとても楽しみだったのを思い出します。今でも思い出せるユダヤジョークがいくつもあります。それからユダヤジョークをもっと知りたいと思い、この本を買いました。

この本に載っているユダヤ・ジョークは、誰でもクスッと笑えるジョークから、かなりきついブラックジョークや、ユダヤ人の歴史の悲劇を踏まえたジョークなどユダヤ人独特のものがあり、ただ面白いというだけではないものがあります。ユダヤジョークを学びながら、ユダヤ人について知ることができる本だと感じています。

 

暮らし、習慣、歴史が垣間見えるユダヤ・ジョーク

短いユダヤ・ジョークをご紹介します。

物忘れ

患者「ドクター、私は物忘れがだんだんひどくなっています。どうしたらいいでしょうか」

医者「ではまず、診療費を先にお支払いなさい」

 

ユダヤジョークの一つの鉄板ネタとして、お金があります。ユダヤ人は商売根性が凄まじいというので有名です。そんなユダヤ人のお金にしっかりしている姿が浮かび上がってきます。

またユダヤ人といえば安息日に守るべき規定がいっぱいあり、それもジョークのネタになっています。

 

安息日破り

「安息日に賭け事をするとは重大な罪だいうことを知らんのか!」

「はい、知っています」

「なら、なおさらお前さんの罪は重いぞ!」

「でも、ラビさん、どうか赦してください。私はそこですでに罰金をたくさん支払ったのですから。」

 

またユダヤ人といえば迫害にあってきた民でもあります。その迫害に絡めたブラック・ジョークもあります。

神の憐れみ?

ウクライナの小さな村で若い娘が殺されているのが発見された。ユダヤ人を憎むものたちが、この不幸な事件を利用して、「犯人はユダヤ人だ!」と煽って村人の怒りが燃え上がった。

ユダヤ人への迫害が起きるという噂が起こり、ユダヤ人がシナゴーグに集まって神に助けを祈っていた。そこに一人のユダヤ人が駆けつけた。

「兄弟よ、兄弟よ、素晴らしいニュースを持ってきました!神様のおかげです。殺された娘は、ユダヤ人だったということがわかったのですよ」

 

こんな冗談言ったら、日本では厳しい非難に合うかもしれません。しかし、このようにブラック・ジョークにすることで、いかに悲惨な状況があったかが記憶にとどめられます。ただただ、悲劇として語り継ぐのも一つでしょうが、ブラック・ジョークにすることで、記憶され教訓とされていくものもあるのです。

 

自分を客観的に見て、笑い飛ばしてみる

ユダヤ人のジョークは、基本的に自分をジョークの対象にしていると言われています。日常的な家庭の問題から、迫害など社会的な苦難まで、自分や周囲を少し遠くから見つめてみることによって、余裕が生まれ、ユーモアが生まれると言います。

第二次大戦の強制収容所にいた「夜と霧」で有名なフランクルも、自分たちの置かれている状況を客観的に見て仲間とジョークを言っていました。

自分を客観視するということは、まず自分の状況がよくわかっていないとできません。ユダヤ人は幼い時から神様の律法を基準に自分はどうかということを考える訓練を受けて育ちます。ですから自己批判がとてもよくできると言われています。よく自分を知っているからこそ、神様からの視点で見つめているからこそ、突き抜けたユーモアが生まれるのかもしれません。

私たちは目の前で苦難が起こった時に、そのことに囚われすぎて息詰まってしまうことがあります。日本人は神様からの視点ではなく、世間の目を気にして生きるので息苦しいのかもしれません。日本人の笑いはむしろ誰かを世間から外れた他人をバカにするような傾向があります。何かユダヤ人のようなもっと自分を見つめて、自分を冗談にできるくらいの余裕が欲しいと感じます。

 

イエス様もきっとユダヤジョークを言ったのでは?

日本人である私たちクリスチャンは、聖書を真面目に読みます。それは素晴らしい特質だと思います。けれど、ユダヤ人がジョークを好んでいたことを思うと、イエス様や福音書、新約聖書にもそのようなユーモアがあるのではないかと思わされます。

少なくとも、私はパウロはユーモアのある人だったと感じています。

 

ピレモンへの手紙

18,もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。

19,この手紙は私パウロの自筆です。私がそれを支払います--あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません。--

 

パウロは逃亡奴隷オネシモを主人であるピレモンの元に送り返す時に、「オネシモが迷惑をかけたなら私が代わって支払うよー今、あなたがあるのは私のおかげだけどね、そのことは言わないよ」と言い添えるわけです。私はここはジョークにしか読めません。教会でこれが読まれて、人々がクスッと笑ったのではないかと思います。

イエス様のたとえ話もジョークが含まれています。財産をごっそり蓄えている金持ちについてのたとえ話もユダヤジョークではないでしょうか。

 

ルカの福音書12章

16,それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

17,そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

18,そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

19,そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

20,しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

21,自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

イエス様もパウロもジョークを交えながら、真理を語られたのなら、私たちもまた笑いを大事にしていいのではないでしょうか。神様と真剣に向き合うからこそ、生まれるユーモアを共にしたいと思います。コロナ禍で色々と苦難が続きます。このような時だからこそ、苦難を超えてきた達人であるユダヤ人のユーモアから学びたいと思わされます。