こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。

18回目はマイケル・サンデル「実力も運のうち 能力主義は正義か?」です。この本はタイトルを見た時から気になり、新聞で紹介されていて「これは読まねば!」と思って読み始めました。この本は牧師である自分にはとても耳が痛いところがありました。考え方を揺さぶられ、変えさせられた一冊です。クリスチャンこそ読んでほしい1冊です。

本の案内と本へのコメントは以下の通りです。

ハーバード大学の学生の三分の二は、所得規模で上位五分の一にあたる家庭の出身だ。にもかかわらず、彼らは判で押したように、自分が入学できたのは努力と勤勉のおかげだと言う――人種や性別、出自によらず能力の高い者が成功を手にできる「平等」な世界を、私たちは理想としてきた。しかしいま、こうした「能力主義(メリトクラシー)」がエリートを傲慢にし、「敗者」との間に未曾有の分断をもたらしている。この新たな階級社会を、真に正義にかなう共同体へと変えることはできるのか。超人気哲学教授が、現代最大の難問に挑む。解説/本田由紀(東京大学大学院教育学研究科教授)

 

出版社からのコメント

「現代社会の怒りや悲しみの根源が理解できる。この事実が理解できないリーダーは怒りを受け続け悲しみを癒すことができないだろう」

――為末大(元陸上競技選手)

「宗教改革からトランプまで、社会思想からスキャンダルまで、きわめて幅広く目配りし、メリトクラシーが社会に及ぼす問題を深く論じたものとして、本書は抜きん出ている」

――本田由紀(東京大学大学院教育学研究科教授、本書解説より)

「鋭く、洞察に満ち、温かい。今こそ必読の書」

――タラ・ウェストーバー(『エデュケーション』著者)

「右派も左派もみんな本書を片手に着席し、真剣に議論しなければならない」

――ニューヨーク・タイムズ紙 –このテキストは、tankobon_hardcover版に関連付けられています。

Amazonより

 

豊富な聖書や教会史からの問題考察

本書は能力主義(メリトクラシー)の現代における問題を考察するために、能力主義がどのように歴史上発達したのかを語ります。それは聖書からも語られます。ヨブの友人に見られるメリトクラシーとヨブがそれを否定するところありますが、創世記など様々なところに能力主義・功績主義があることを見ます。

確かに聖書には神への信仰と報いとしての祝福について語っているところがたくさんあります。それは一つの真理だと思います。しかし、同時にヨブ記や嘆きの詩篇に見られるように、信仰と報いが直結しないケースも真理として表明されます。

新約聖書でも「『救い』という報い」は「恵み」(神様の側に主権)であると同時に「信仰」(人間の側の応答)という側面があります。歴史の教会はこの「神の主権による予定」と「人間の自由意志」のどちらかを強調することで神学論争が生まれていきました。

サンデルはアウグスティヌスは「恵みのみ」という信仰を持って語っていたにもかかわらず、「教会の慣行が『能力』を呼び戻した」と見ます。それは礼拝への出席、秘蹟の実行などを教会活動を継続するためには、信徒が「何らかの効能」を感じられるようにする仕組みが必要だったというのです。その最たるものが免罪符だったわけです。

ルターはそれらを否定して「恵みのみ」に回帰したにもかかわらず、その宗教改革から生まれたピューリタンは能力主義的な労働倫理を生んでいったというのです。恵みのみの信仰は、救いの確信をなかなか実感できません。そのため、労働ということが一つの鍵になりました。仕事は神様から与えられたもの、天職である。だから与えられた職に忠実であることが神様の御心に生きていることになる。つまり、救われているしるしと考えられました。

しかし、この忠実に働くことが「救いのしるし」だったはずが、忠実に働いている「から」救われるのだという転換が自然発生的に起こっていったのです。救いへ無力である「恵み」の神学は、救いは自分の努力によるという「自助」(天は自らを助るものを助ける)の神学に変化して言ったというのです。

 

教会が陥りやすい「自助の神学」

「一生懸命◯◯をしたから、自分は救われる(恵まれる、尊敬される)だけの価値がある」という水面下での「信仰」は、教会の中に容易に散見されます。「一生懸命聖書を読んだから、いいことがあった」「何時間も祈ったから、人が救われた」「弟子訓練をしたから、教会は成長した」。こういう信仰は、本人たちは否定するかもしれませんが、「恵み」を脇へおいやります。そして、「熱心な信仰活動」という行いへとフォーカスしていきやすい。

それは裏を返すと、「あの人に悪いことがあったのは聖書を読んでいないからだ」「家族が救われていないのは、徹夜祈祷をしていないからだ」「教会が成長をしていないのは弟子訓練をしていないからだ」という評価につながります。それは神様の恵みによる救いとは程遠いものです。サンデルの著書では「繁栄の神学」がまさにそのような恵みとは程遠い「能力主義の神学」として考察されています。

私は主の救いはただ恵みのみだと信じています。行いは恵みへの「応答」の一つに過ぎないと考えます。信仰とは、常に先に神様の恵みが先立ち、ただ応答できるようにしていただいていると信じています。そして、その応答の仕方も様々あっていいと思っています。互いにただ主の真実に心を向け続けるものでありたいと思わされます。

それでも、気づかないうちに自分がどれだけ毎日聖書を読んでいるか、どれだけ祈っているかということを測ってしまいそうになります。嬉しいことがあると、それを自分がしてきたことに還元しようとする誘惑に駆られます。

この本を読んで、私は喜ばしいことがあったときに、あえて「たまたまです」と表現したくなりました。これまでは「神様の恵みです」と答えていました。確かに恵みに違いありません。しかし、「恵み=いいこと」ではない。「悪いこと=恵みから外れた」ではありません。なぜ、自分に良いことがあったのか、悪いことがあったのは真の意味で神様の御心はわからない。だからこそ神様の支配の元での「たまたま」だと謙遜になりたいと願わされます。

なぜ自分が苦しむのか、なぜ自分が恵まれているのか、どちらもわからない。だからこそ、謙虚でなくてはいけない。そして、苦しむときに私たちは見捨てられたのではなく、むしろ苦しまれた主を思うように導かれたいと願わされます。

 

不平等への回答として教育を掲げた功罪

アメリカでは人種差別や身分差別を解消するために掲げられたのが「教育」でした。全ての人が高等教育を受ければ、差別はなくなり、社会問題は解決するという理想を多くの大統領は語ってきました。それは全ての人に素晴らしいと考えられました。しかし、そこに功罪がありました。

「高等教育を受ければ差別はなくなり貧困から脱出できて豊かな生活を送れる」と社会が進めていった結果、高等教育を受けて成功した人々は「自分で」その地位を手に入れたと考えるようになりました。それは一面真実でしょう。しかし、それは裏返すと「教育の機会はありながら、高等教育を受けなかった人々が低収入であるのは自己責任である」という論理につながります。今起こっている格差社会は「制度の失敗ではない。あなたの失敗だ」ということになるわけです。

教育を中心にしていった結果は、「正義vs不正義」ではなく、「賢いvs愚か」に変化していきました。今も物事の解決について賢い選択、愚かな選択と多くの場所で言われています。そして、学んだ人と学んでいない人の分断が生まれています。学んでいない人を愚か者と評価することは他人を見下すエリート主義であり、分断しか生みません。

「高学歴のエリートも低学歴の人びとに劣らず偏見にとらわれているというのが彼らの結論だ。『むしろ、偏見の対象が異なっているのだ』。しかも、エリートは自らの偏見を恥と思っていない。彼らは人種差別や性差別を非難するかもしれないが、低学歴者に対する否定的態度については非を認めようとしない。」

 

能力の驕りを挫き、尊厳の回復が求められている

高学歴者は、往々にして社会問題は知識不足が原因であると考え、知性至上主義的になる。それは、自らがそのような知識を得るために努力して相応しい位置いるから、それを肯定するために知性を神聖視してしまいやすいのです。しかし、これは能力の驕りへとつながります。

タチが悪いのは、その態度が学んでいない者たちの反発を生んでいることに気づかないことです。「もっと勉強しろ」という侮蔑的な態度に出てしまう。これは学んでいる者たちが大いに自戒しないといけないことだと思わされます。

聖書を読むのは知的行為であることは事実です。その理解を深めるために学びは必要でしょうが、学んでいるものが学んでいないものたちに対して「もっと学べ」ということは学問の驕りであり、学ばないものたちの尊厳を傷つけ、屈辱感を与えます。そして、反論しようとして「ふさわしくない」言葉を言ってしまうことが往々にあります。差別的な発言をしてしまう人は悪いのですが、その発言を引き出すものが自分にないかを自戒したいと思うのです。他者への敬意を欠いていないかを問われます。

サンデルは次のようにまとめます。

「自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じれば、ある種の謙虚さが生まれ、こんなふうに思うのではないだろうか。「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなっていた」。そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。」

 

私はまず教会がこのようにあらねばならないと思います。学んでいるものも、学んでいないものも何の違いもなく、教会に関与し、互いに尊重し合う。役員や牧師に選ばれるのも学歴によるのではないあり方が必要だと思います。サンデルのように適格者を候補とし、あとはくじ引きで決めるというのもいいかもしれません。牧師も役員も「選び」であることに謙虚になれるかもしれません。

私はキリスト教世界でもこのような学んでいるものも、学んでいないものも、互いに尊重しあえる空間であってほしいと願います。人によっては「学び方が違うだけ」かもしれない。互いの声に耳を傾けたいと願わされます。私は学んでいる人からも、字義的と考えられる方からも、聖霊によるという人からも教えられたい。怨嗟の少ない世界であってほしいとただ願います。