こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。
19回目はトルストイ「光あるうちに光の中を歩め」です。ロシア文学で「ドフトエフスキー派かトルストイ派か」と問われたら、間違いなく私はドフトエフスキー派です。重たく苦しい現実を直視させてくれることで、その暗闇の現実から立ち上がる力を与えてくれるように感じるからです。どこかトルストイというと、理想主義という印象があり、避けてきたところがありました。ただ、最近改めて紹介され読み始めてみたら、とても教えられることがいっぱいでした。この「光あるうちに光の中を歩め」は多くの人に読んでいただきたい1冊です。
複数の人々が自分たちの人生を振り返ってどう思うかを話し合っていた。参加者の誰一人満足した人生を送っていないことが判明したが、ではキリスト教に倣った生活を送れるかというと、そうも行かず、実際には子供の教育は従来通りにやってしまうのだった。
話の舞台は古代のローマ帝国に移る。シリア出身の商人ユヴェナリウスの一人息子ユリウスと、ユヴェナリウスの奴隷の子供パンフィリウスとの議論が話の中心となる。皇帝トラヤヌスの時代、イエス・キリストの弟子たちは世間から白眼視され肩身の狭い思いをしていた。キリキヤという街でユリウスは商売に精を出していて、宗教には全く関心を持っていなかった。ところがパンフィリウスがキリスト教徒だと告げられ、そこから2人の何度も繰り返される議論が続く。
しばらく2人は顔を合わせていなかったが、ユリウスは行政官になって、帝国本部の命令でキリスト教徒の活動を押さえる作業に取りかかった。そこで久し振りにパンフィリウスと再会し、結婚、教育、労働について話し合った。妻エウラーリアの死後、ユリウスは自らパンフィリウスを訪問する。それまでの罪を懺悔してパンフィリウスに励まされたユリウスは社会生活に戻り、20年後にこの世を去ったのだった。
信仰の道を拒否するもっともな理由
この本はまだキリスト教が国教化される前のローマ帝国を舞台にしていて、キリスト教も今のような日曜日に教会に通うというようなスタイルではなく、寝食を共にする共同生活を送っていたと考えられる時代の様子が描かれます。
果たしてここまでの共同生活を実際に送っていたのかと問われると、やや反論はあるのではないかと思います。ただ、これに近い互いに支え合うシステムは間違いなくあったと思われます。また、修道院などのあり方とも重なり合うものがあります。
ただ、私はこの本を読むときに、信仰の道への反論部分にとても考えさせられるところがありました。そのキリスト教への疑問はとてももっともだと思われます。だからこそ、その疑問への反論の部分には力がこもっているように感じます。例えば以下のような反論があります。
・キリストは暴力強制を認めない、戦争や裁判機構を認めない、私有財産を認めない、科学技術や人生の楽しいものを認めない
・信者にあるのは磔にされた自分たちの師匠と、その言葉に対する盲目的な信仰だけ
・キリストの教えがあれば社会が良くなると主張しているが、何がそれを請け負うのか。権力も法律も存在しない状態でそれは達成されるうるのか。結局キリスト教も政府の権力と法律によって守られているに過ぎない
・キリスト中心に教えていると、子供は国家のためにならない。国家のために教育することが国民の義務である。そして大人になれば国家のために尽くすべきだ。国家に尽くさないキリスト教徒は国家の保護を受けながら破壊しようとしている。
国家と信仰という問題は、実に大事な問題だと考えています。国家のもつ積極的な意味は「生命を守る」「文化・文明の発展」などいくつもあります。国民の生命を守るには軍隊が必要だと考えるのは自然です。そのためにみんなが義務を負うことも当然の帰結でしょう。
しかし、クリスチャンは全く違う国家観によってこれらのことを成し遂げようとします。福音の醍醐味は、「二つのものを一つにする」ところにあります。それまで自由人と奴隷という隔てられていたものを一つにしました。ユダヤ人と異邦人という隔ても打ちこわしました。男性と女性という隔ても打ちこわしました。「キリストにあって一つ」となるのです。
敵が敵でなくなる。敵のうちに兄弟を見つける。これができるようになると、争いの多くは意味をなさなくなってきます。それでも、キリスト教徒は多くの戦争をしてきました。キリスト教徒同士でも多くの血を流してきました。だからこそ、本当に敵の中に兄弟を見いだすということに本気で向き合う必要があるように感じます。これは決してただの理想論ではありません。
もちろん、これで全ての人が納得するわけではないでしょう。けれど、私たちは様々な反対意見にも耳を傾け、そして何を不安に思われているのかに答えられるようにしていたいと思わされます。
信仰の道に入るのに遅いということはない
この主人公は、何度か人生の節目でキリスト教共同体に入りたいと思いつつも、とどめられました。そして子育てを終えて、国家での仕事も力を失って、その後やっとキリスト教共同体に向かいました。しかし、そこで一つの後悔をします。それは、「もっと早く来ればよかった」ということでした。というのも、もう歳を取り過ぎていて十分に共同体で働くことができないからです。
しかし、そこで彼はある老人から諭されます。
あんたは自分がやって来た以上のことができないと言って悲嘆してなさる。が、嘆きなさるな、お若いの。われわれは一人残らず神の子で、またその神の下僕なのだ。われわれはすべて神に仕える一隊なのだ。ねえ、まさかあんた以外に、神の下僕はいないなんて考えているのじゃないだろうな? もしあんたが働き盛りの時に、神への奉仕に献身していたら、神に必要なことを、全部行なっていただろうか? 神の王国を建設するために、人間がすべきことの全部をなしとげていただろうか?
あんたは倍も、十倍も、百倍も、余分にやったにちがいないと言うだろう。しかし、もしあんたがすべてのひとびとより何億倍も多くなしとげたにせよ、神の仕事全体からみれば、それは何でもありはしない。取るに足らぬ大海の一滴じゃ。
どんなに人間が神様のために何かをできたとしても、それは大海の一滴に過ぎない。大事なのはキリスト教徒として何を成し遂げたかではありません。そして、老人は続けます。
あんたは神のもとへ行って、労働者でなく、神の息子になりなさい、それであんたは限りない神とその仕事に参加する人間となるだろう。神のもとには大きいもの小さいものもありはしませぬ、また人生においても大きいものも小さいものもなく、存在するものは、ただまっすぐなものと曲ったものばかりじゃ。人生のまっすぐな道に入りなさい、そうすればあんたは神と共にあるようになるだろう。
もっと早く信じていれば神様にたくさんのご奉仕ができたのに…。そう言われる方は教会に結構いらっしゃいます。しかし、大事なことはたくさん神様に奉仕したことではなく、ただ神の子どもになること。そこから全ては始まります。神様にとっては義人のためにではなく、罪人を救うために独り子であるイエス様を遣わされた。そのことがわかると、私たちはもっと信仰生活が喜ばしく、楽しいものになるのではないでしょうか。
どんなに紆余曲折のあった人生でも、神様は喜んで迎えてくださいます。何かができるからではなく、ただ私たちが子どもとして戻ってくることを願っておられる。そんな神様の愛を感じさせられるラストとなっています。
今読んでも教えられること、考えさせられることがたくさんあります。そんなに長くない本ですので、クリスチャンもそうでない方にも読んでいただきたいと思います。