こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。

20回目は浅野 楢英「論証のレトリック」です。これは古代ギリシャの言論技術、修辞学についての入門書です。なぜ、そんな本を牧師が読むのかということですが、決してこの本で学んで人を説得してやろうなどと思っている訳ではありません。理由は単純で、聖書の中の書簡をもっと理解したかったからです。

 

ずっと書簡がよくわからなかった…

私は幼い頃からクリスチャンでしたので、聖書には親しんできましたが、記憶に残るのは聖書の物語くらいでした。新約聖書で言うと福音書と使徒の働きまではよくわかるけれど、ローマ書以降がなかなか理解できませんでした。「いい言葉だな」と思うところはたくさんあるので、なんとなく読んだような気になるのですが、通読などで読もうとしてもどうにもよくわかりませんでした。

そのためずっとパウロ書簡に苦手意識を持っていました。神学校に行って何が良かったかと言うと、「物語は物語として読みなさい。手紙は手紙として読みなさい」と教えてもらったことです。聖書には物語や詩、教訓、歴史など様々なジャンルがあります。それぞれのジャンルの書き方があります。そのことが分かると、見えてくるものがありました。そして、そこからパウロ書簡についてもだいぶ見えてきました。

 

パウロが学んでいたことを学ぶ

手紙には手紙のルールがあります。現代の私たちでも「拝啓〜」「前略〜」など、手紙を書く上でのルールがあります。また、内容が挨拶なのか、報告なのか、お見舞いなのか、お悔やみなのかで文章は変わってきます。私たちも学校で手紙の書き方を学びますが、それは古代の人々も同じです。当たり前ですが、現代と古代では手紙の書き方は変わってきます。そこで大事になるのが、当時の人々はどういう手紙の書き方をしたのかと言うことです。

パウロが学んでいたであろう教育はもちろんユダヤ人としての教育だったでしょうが、それだけではありません。彼は当時の一般的なギリシャの修辞学もまた学んでいたことは間違い無いでしょう。と言うのも、パウロの手紙はまさに当時の修辞学の知識によって書かれているからです。

 

アリストテレスの3種類の弁論

この本でも紹介されていますが、アリストテレスは様々な弁論を3種類に区別しました。審議弁論、法定弁論、演示弁論の3つです。

審議弁論ー議会など公の会議に集まる人たちに対して、「将来」のことについて「利益(善)」と「損害(悪)」とに注目しながら、より良い行動をするように「勧奨」したり、悪い行動をしないように「制止」したりするもの。

法定弁論ー裁判委員としての聴衆に対して、「過去」の行為に関して、「正」と「不正」に注目しながら、相手側を「告訴」したり、自分側を「弁明」したりするもの。

演示弁論ー冠婚葬祭など儀式に集まった人たちに対して、(過去や将来も扱うが)主として「現在」のことについて、「美」と「醜」に着目しながら、人の行為を「賞賛」したり、「非難」したりするもの。

 

この3つの弁論法があると言うことが分かるだけでも、パウロ書簡に光が差してくる思いがします。というのも、現代の私たちからすると、パウロの手紙は正しいことと悪いことをかなりコントラストをつけて書いているように感じ、時にきつく思われるところがあります。しかし、それは当時の弁論方法であると理解できれば、それを元に「何が言いたいのか」が見えてきます。余計なところで躓かないですむと感じます。

 

パウロ書簡はどの弁論法を用いている?

パウロ書簡もそれぞれ3つの弁論がさまざまな形で用いられています。例えば、ガラテヤ書はガラテヤ教会がパウロが去った後にして問題行為と言う「過去」について取り上げ、教会の不正を告発するような形を取っている。これは法定弁論的な書かれ方をしている。ただ、そこで終わらず、より良い「未来」について勧奨する審議弁論の要素も含んでいる。

ガラテヤ書はパウロがかなり激しく怒っている手紙ですが、それもパウロの修辞学的な表現様式なので、単純に「ただ怒っている」と受け取ってしまうと、読み取るべきところが見えなくなってしまいます。

パウロは過去、現在、未来のどこに注目しているのか。それについて勧めをしようとしているのか、制止をしようとしているのか。賞賛しているのか、非難しようとしているのか。そう言うことを見分けられるようになると、パウロは何を言おうとしているのかが見えてくる気がしてきます。

もちろん、はっきりと「〜弁論」と断定できるものではありませんが、注目すべきポイントが見えてくると、もっと読み取りやすくなってくると思います。

 

過去の手紙が今、私への手紙へとなる

新約聖書は今から2000年近く前に書かれたものです。ですから、当然今の私たちとの間に隔たりがあります。その隔たりをないものとして考えるのではなく、隔たりを隔たりとして認識した上で、読むとむしろ迫ってくるものがあります。

修辞学を学ぶことは、その隔たりの一つを取り除くものになると感じます。訳のわからない手紙から、「パウロはこう言うことを言いたかったのか」と見えてくると、まさに私が聞くべき言葉が見えてきます。

私にはこの本がそのような一助になってくれました。皆さんの助けにもなれば幸いです。