こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。

21回目は劉 慈欣「三体」です。これはⅠからⅢまである長編のSF小説です。詳しいあらすじはWikipediaなどを参照していただきたいのですが、ざっくりいうと近未来に宇宙人と地球人がコンタクトを取るようになるのですが、その宇宙人は地球よりも圧倒的に科学技術が進んでいて、このままでは地球が侵略されてしまうので、どうにかして地球を守ろうとするお話です。

こう言ってしまうとよくありそうなSFに聞こえるかもしれませんが、読んでみるとそう単純なものではなく、「実際、起こりそう」と思ってしまうリアルさがあります。また、単純に「地球を宇宙人から守ろう」というところにとどまらず、最後のⅢでは地球から宇宙に脱出していく様子や、四次元や二次元など次元を超えた宇宙の広がりなど出てきて、圧倒される思いがします。

牧師である前に単純にSFとして「面白いな〜」と思って読んでいたのですが、牧師としても考えさせられるものがあります。というのも、一見キリスト教のみならず宗教など関係なさそうなSFですが、意外と宗教についての記述も見られ、「もし宇宙人とコンタクトを取るようになったら、宗教はどうなるのか」という牧師としても考えさせられるテーマがありました。内容としても、キリスト教の牧師として考える視点もいくつかありましたので、ここに少し触れておきたいと思います。

 

宇宙人がいたら宗教は滅びるのか?

宇宙人がいるのかいないのかは分かりませんが、時々「宇宙人がいるとわかったら宗教は廃れる」というようなことが言われます。クリスチャンの中でも、「聖書には宇宙人がいるとは書いていない」と言って考えるのをストップさせてしまう人がいます。

私は宇宙人がいたとしても、神様の存在を信じられなくなるとは思いません。宇宙人がどのような「造物主」を信じているかは分かりませんが、この「天と地」は神様によって造られたと信じていますから、宇宙人もいるとするなら神様の被造物に違いないと思います。神様は全宇宙を造られたのですから。この辺は、同じ宇宙人との接触ものの映画「コンタクト」などを見てから、そう考えています。「コンタクト」についてはいずれ…。

この「三体」の中では、宇宙人襲来による危機の際に「宗教ブーム」が起こることが語られています。さまざまな不安の中で状況をその時々に合わせて慰めと励ましを語る宗教の存在は続くだろうと予想しています。確かに、どんなに科学が進歩しようと、危機に際して不安や恐れがなくなることはありません。そういった危機を乗り越えるために、信仰は力になります。この「三体」の中でも、宇宙人と戦うために人為的に不安を消すために「信仰」のシールを施すということが検討されています。それくらい、何かを信じられないと人間は行動できないものです。

何より「信じる」という行為には、未来への希望が含まれています。どんなに科学が進歩しようとも希望がなければ人は行動できません。何より人間にはいつの時代も「死」という絶望が立ちはだかります。信仰は「死」という絶望を超えて、「死の先」への希望を持たせてくれます。希望はより積極的な行動へとつながります。

また、「三体」で興味深いのは、シリーズⅠでは「地球三体協会」という宇宙人を信じて宇宙人に仕える集団が登場します。しかも、この宇宙人は地球を侵略して滅ぼすというのに、その宇宙人の側に立って地球を内部から三体人に明け渡そうします。その宇宙人のことを「主よ」と呼びかけるなど、まさに宗教的です。

また立ち向かう地球人の側も一つの政府を作って危機に向き合うのですが、これもまた生きるための一つの信仰のように思われされます。「人類は存続すべきだ」という共通信仰によって行動します。これらも互いを信じる心が失くしては、共に何かをなすことはできません。

ハラリの「サピエンス全史」によると、人類がここまで進化してきた理由は、「見えないものを信じる」認知革命が起こったからだと言われています。どんな動物も「ライオンが来るぞ」とは知らせあえても、「ライオンは守り神だ」と「信じる」ことは起こりませんでした。人間には「見えないものを信じる」力があります。それが人と人とを結び合わせる力となりました。

「見えないものを信じる」ことこそ、「神のかたち」に造られた人間の特質だと感じます。どこまで行っても人間はこの「見えないものを信じる」のだと思わされます。それは宇宙人が来ても変わらないのではと思います。

 

決断の背後にあるのは愛であることの希望

この「三体」のシリーズはかなりリアリスティックに人々が考え行動する姿が描かれます。「より多くの人命が救われるためであれば、ある程度の犠牲は仕方ない」というように、かなり危機に際して無慈悲にも人が死んでいきます。国家権力は絶大で、その力の前には人がまるでチリのように感じます。この手の非情さはSFものではつきものですが、この「三体」はかなりきついものがあります。

けれど、このシリーズでは非情さの中で常に「愛」というものの可能性を探っているように感じます。特にシリーズⅢの主人公の女性科学者の行動は、苦しむ人々を思う「愛」によるものです。しかし、その「愛」ゆえに非情な行動を取れなかったばかりに、多くの人類が苦しむことにもなります。この辺に人類の葛藤を見る気がします。

「愛が大事なのはわかる、けれど時に愛ではなく非情さがより多くの人を救うことになるのでは。それも人類への大きな愛と言えないか」

何かそのように問われている気もします。戦争や疫病もまた非常時で、時に目の前で苦しむ人を見捨てても、より多くの人を救う決断が迫られる「非情さ」が求められる時もあります。確かに、目の前の人の命が守られるだけの行動は大きな視野で見たときに、多くの人々を不幸な目に合わせてしまうことがあります。その状況、状況で「何が最善なのか」が問われます。

けれど、「非情さ」がことさらよしとされると、人の命は相対的に軽く考えられます。命は数字で測られるようになり、決断する人は人が見えなくなってしまう。実際この小説「三体」の中でも、非情な決断に対して多くの人々が批判します。そして、主人公の愛の行動は多くの犠牲に発展し一時的に非難もされますが、後に評価は変わっていきます。何かを決定する人の行動原理が愛であることは、短期的には失敗に見えても、大局的にみた時に希望に繋がることがある。力と力による均衡を保とうとするゲームは、何かバランスが崩れれば容易に相手を滅ぼそうとするものになります。けれど、愛による行動は均衡が崩れても、何かを相手に残すものがあります。

 

無力であることの中にある希望

この三体の中で、興味深かったのは、最後のⅢで地球存亡をかけた一つの可能性に「ブラックドメイン」という方法が検討されます。詳しくはネタバレになるので避けますが、宇宙全体に地球が無害であることを宣言するという方法です。その代わり、人類文明が発展しないようにしてしまうという方法です。

私たちはより発展してより力をつけることが生存の可能性をあげると考えやすいです。普通に考えればそう思います。より強い方が勝つ。当然な気がします。しかし、この小説は「そうとも言えない」ということを教えてくれます。

この小説の中では宇宙の法則として、「力が強いものは、同じくらいの力があるものにとっては脅威となるかもしれないから、もっと力をつける前に滅びしてしまえ」という暗黒森林ルールがあると語られます。だから、高度な文明であるということが他の宇宙人に知られると、滅ぼされる可能性が高くなってしまうのです。

これは何かよくわかる気がします。「出る杭は打たれる」の諺通り、力をつけてきたら自分の存在を脅かすかもしれないと思うと滅ぼそうとする。これは世界中に見られることです。だから、「能ある鷹は爪を隠す」ということが必要になってきます。しかし、それでも「あの鷹は爪を持っているのでは?」と思われてしまったら存在が危うくなのです。そうなると、「生きるために爪を切ってしまう」というのが安全になるわけです。

自分から無力になってしまう、それが生きる道だというのです。これは、何か聖書の信仰に通じる気がします。イエス様は神である方が人間となられ、無力となられました。イエス様は無力となられましたが、それでも十字架につけて殺されました。けれど、復活されてた。この御子であるイエス様が十字架にかかられたといううちに、神ご自身が「無力さ」を明らかにしてくださった。

それは神様が何もできないということではなく、敵対するものを滅ぼす力がある方がその力を無にしてくださった。その無力の中にこそ、神様が人の敵ではない、本当に愛し救おうとしてくださっているのだということが明らかになっているのです。

人間は神様に滅ぼされるかもしれないと武器を握っていました。しかし、敵対しないということをイエス様が無力になることで明らかにしてくださいました。敵対していた私さえ滅ぼされない、それが神の愛であり、その愛だけが人を変えるのです。

この無力のうちに表された神の愛に触れたものたちは、また無力であれます。さながらアダムとエバが裸であった状態に回帰するようです。もう敵がやってくるかもしれないと恐れる必要はないのです。なぜなら、最大の敵とは死だからです。その最大の敵である死は、イエス様が復活されたことで、もはや力を持たなくなりました。

突き詰めていくと、無力であることこそが我が身を守る無力さの中に愛があるならば、私たちはどのように愚かに思われようと、そこで生きていける。この三体はそんなことまで考えさえさせてくれる奥深い作品でした。