こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。

2回目は三田一郎の「科学者はなぜ神を信じるのか」です。教会に行きたい、聖書を学んでみたいと思う人が引っ掛かると思うことが、「科学と聖書をどう考えたらいいのか」ということではないでしょうか。特に聖書を読もうと思って最初に開く創世記で天地創造のところを読むと、どう考えたらいいのかと悩むわけです。「この科学の時代に、これを文字通り信じないといけないのか?」と。クリスチャンである私自身もその疑問を持ってきました。悩むのは当然だと思います。

創世記の天地創造については別の時に触れるとして、「科学と信仰」を対立するもののように考えるべきなのかというとそうではないということをぜひ知っていただきたいと思うのです。この本は科学者も神を信じているということを、教えてくれます。

そもそも、今日の科学は教会の中で生まれました。「神様が造られたこの世界はどのようにできているのか」と考えるところから科学は発展していきました。ある時期、対立しているような不幸な時代もありましたが、今はそのようには捉えられていないと私は思っています。

この本の中で、ガリレオの次のような言葉が紹介されています。

「聖書と自然はともに神の言葉から生じたもので、前者は聖霊が述べたものであり、後者は神の命令の忠実な執行者である。二つの真理が対立しあうことはありえない。したがって、必然的な証明によってわれわれが確信した自然科学的結論と一致するように、聖書の章句の真の意味を見いだすことは注釈者の任務である」

「聖書と自然はともに神の言葉から生じている…真理が対立することはない」

これは大事な視点ではないかと思わされています。また著者は自分自身の見解として次のように語っています。

「科学法則は『もの』ではないので偶然にはできません。宇宙創造の前には必然的に科学法則が存在したはずなのです。では、科学法則は誰が創造したのでしょうか。…私自身は、科学法則の創造者を『神』と定義しています。ルールが存在するということは、その創造者である神が存在するということだ、と考えるのです。」

ガリレオにしても、この書の著者にしても、この世界の法則の中に神様の存在を見る。しかし、その存在する世界にしても、その法則にしても、目的や意志といったものは、観察からは理解できません。それは記述された世界について眺めることしかできないからです。

聖書は、この世界も私たち人間も神様によって、目的をもって造られ、存在意義があることを教えてくれます。また、現在の私たちの状態について観察し得ない「霊的な(見えない)次元」について教えてくれます。

牧師やクリスチャンは神様によって造られた世界について謙虚に学んでいく必要があると思っています。また、同時に科学者もまたこの本の著者たちにように、事物の背後にある存在に思いを馳せる必要があると思います。

この世界の全ては神様によって造られているー神様は科学によっても、聖書によっても、ご自身について語ろうとされている。そう思うと、世界をもっと知りたいと思わされます。聖書を通して、またあらゆるものを通して、制作者である神様の痕跡を見出していきたいと願わされます。