こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。

4回目は三浦綾子の「細川ガラシャ夫人」です。キリスト教は戦国時代に日本に伝わり、乱世の日本の中で大きな影響を各方面に及ぼしました。有名なところでは高山右近や大友宗麟など戦国武将がクリスチャンになったことで知られています。そして、その時代に女性でクリスチャンになった人として有名なのがこの細川ガラシャ夫人でしょう。

細川ガラシャのガラシャは洗礼名で、本名は細川玉子といい、細川忠興の妻です。そして、父親があの本能寺の変を起こした明智光秀です。この三浦綾子の小説では、明智光秀についての印象が変わります。もちろん、小説ではありますが、人格的に優れた人であり、本能寺の変に至るまでの苦悩の様子が伝わってきます。

「これは愛なのか?」〜細川忠興の愛について考える〜

この小説を読んでいて、私が興味を惹かれたのがガラシャ夫人の夫である細川忠興です。戦国武将として、情報収集能力に長けており、勇気もある力強い人なのですが、異常なほどに嫉妬深い。玉子が美しいから、誰かに言い寄られるのではないかと疑り、一切の外出を禁じる。寝言で男性の名前を言おうものなら怒り狂う。かと思えば、玉子のために根気強く百人一首の絵札を作るなど愛情を表そうとします。しかし、反面幼稚なところがあり、妾をつくって正妻である玉子と無邪気に引き合わせる。

この細川忠興が最後玉子の葬儀において、人目も憚らずに泣きます。忠興は乱世ゆえとはいえ、「お家のため」に玉子を結果的に死に追いやってしまった自責の念に駆られます。しかし、その葬儀の場面の終わりは次のようになっています。

「取り返しのつかぬ悲しみの中で、しかし忠興は、一方一抹の安らかさをも覚えていた。 

(とうとう、お玉は、わし一人のものであった)  

秀吉をすら、懐剣によって斥けた玉子を思うと、忠興は嗚咽しながらも、深い安があった。  結婚以来、狂気じみた玉子への執着に終始していた忠興だった。愛する玉子を失って、はじめて安らぎが来た。」

「愛する玉子を失って、はじめて安らぎが来た。」この言葉には何かリアルなものを感じると同時に、考えさせられるものがあります。この小説を読み終えた後に、私の中で回り続けている問いは、「これは果たして愛なのか」ということです。

もちろん、愛の形はさまざまでしょう。一つの型にはめることはできません。けれど、死んで初めて平安が訪れる愛とは、何なのだろうと考えさせられます。玉子は夫に誠実に仕えます。しかし、行きたかった教会にも身分を偽って、たった一度しか行くことができなかった。カゴの中の鳥のように扱われた生涯でした。玉子は夫である忠興から愛情は感じていたでしょうが、信頼されていないことに悲しみと不自由さがあったことでしょう。

愛は人を自由にする〜聖書が語る愛〜

このことを思い巡らす時に、昨日のブログにも記したローマ書13章の言葉がよぎります。

ローマ人への手紙13章

8,だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

9,「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。

10,愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

「愛は隣人に対して害を与えません」この言葉は本当に偉大だと感じます。そして、本当の愛は私たちを自由にする愛であると信じています。神様の愛は、相手の自由を徹底的にまで認める愛です。

新約聖書でイエス様が語られた放蕩息子のたとえはまさにそうでした。息子が金を持って外国に行ってしまいボロボロになる。父はそれがおそらく分かっていた。それでもその息子の自由を尊重した。その上でボロボロになって戻ってくるのを待っていた。

同じようにイエス様はユダやペテロに裏切ることを許された。それでも復活されたイエス様はペテロを受け入れられた。ユダは自殺してしまったけれど、もし彼が悔い改めれば間違いなくイエス様は受け入れられたでしょう。

旧約聖書でもホセア書を読むとき、不倫してしまう妻を受け入れる夫として神様が描かれています。それでも、神様は彼ら・彼女らが戻ってくることを願っている。不倫をしてもいいと言っているのではありません。それは許されないことです。しかし、それでも不倫することを禁じるために縛りつけたりはしない。徹底的に自由の中での神様との関係で、生きるように導いてくださっている。

私たちはこのような愛を持つことはできるものではないでしょう。しかし、少なくともこのような愛で神様から愛されている。神様は私たちが失敗する自由も認めていてくださる。失敗して欲しいのではなく、失敗する自由を奪わない。そこまで私たちのことを尊重してくださっている。その愛に気づくときに、私たちは動かされていきます。その愛で生きたいと思うようになり始めます。

愛とはなんだろうか。私の愛は神様の愛と比べてどうなのか。相手を傷つけるものになっていないだろうか。そのことを見つめ直します。しかし、いくら私たちの愛が歪んでいたとしても、神様はその歪んだままの私を受け入れてくださいます。神様の愛のうちにとどまるときに、その歪みが少しずつ癒されていくのを覚えます。

人を縛るのではなく、自由にする愛。私たちはその愛で愛されて歩めるようにしていただいています。