こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。
7回目はカズオ・イシグロの「クララとお日さま」です。カズオ・イシグロは言わずと知れたノーベル賞を受賞した日系イギリス人作家です。カズオ・イシグロの「日の名残り」「わたしを離さないで」は映画やドラマになり有名になりましたね。個人的には「浮世の画家」という日本の戦中・戦後の画家について書かれた小説が心に残っています。カズオ・イシグロの作品には、どこか人間の悲しく、また恥ずかしい弱い部分が描かれているように思います。しかし、そのような弱さをもった人間を断罪するのではなく、ただ見つめているように感じます。決して暖かい眼差しではないけれど、冷たくもない、そんな温度のなさが個人的な印象です。
さて、この最新作の「クララとお日さま」ですが、紹介文には「AIロボットと少女との友情を描く感動作」とありますが、そう単純な「ドラえもんとのび太」のようなお話ではありません。そこにはやはり人間の汚さや弱さ、愚かしさが描かれます。最新の技術を使っても変わらない人間の愚かさは変わらないというのは「私を離さないで」と通じるものを感じます。
近い将来登場するかもしれない作業するためのロボットではなく、友達としてのAIフレンド、「AFのクララ」の語りで物語は進められます。ジョジーという女の子の家に買われていったAFのクララは、好奇心をもって新しいことを学習していこうとするAFです。そして、自分の持ち主であるジョジーが不治の病を患っていて、なんとかジョジーのために仕えていこうとします。その姿はただの単純作業をする機械ではなく、まさしく誠心誠意仕えようとする真心を感じさせます。時に周りの人間の命令にさえ背いてまで、考えうる最善の行動を取ろうとします。
人によっては、クララのようなAFなんて出てくるわけないと思うかもしれませんが、ノヴァ・ハラリの「ホモ・デウス」では、確かに私たちのことを私たち以上によく知っているAIの登場を予想しています。恐らく、カズオ・イシグロもその辺から着想したのではないかと思います。
内容は非常に面白いので、これ以上は触れませんが、牧師として考えさせられたことを少し書いてみたいと思います。それは果たして「AIに信仰は生まれるのか」ということです。
AIの信仰を学習し、信仰を持ちうるのだろうか?
カズオ・イシグロの小説では、ほとんど宗教が登場しないのですが、この「クララとお日さま」の中で、AFであるクララは「祈っている」と思われるシーンがあります。それだけではなく、AFであるクララは人との対話の中で、「〜と信じています」と度々語ります。およそAIと結びつきにくい「信じます」という言葉が出てくることが興味深いものがありました。
AIであるクララは持ち主であるジョジーの病の回復のために祈ります。その小説の中のクララの祈りはとても真摯なものがあります。この小説を読んでいると、本当にAIの中に祈る心、信仰が起こるのかもしれませんと思わされます。
これは決して荒唐無稽なことではありません。考えてみていただきたいのですが、そもそもAIは人間のあらゆることを学習します。そして、多くの人間の判断や行動に信仰が影響しています。であれば、当然「信仰」についても学び、AIが判断や行動する背後に何らかの「信仰」的なものがあるようになることは、考えられるのではないでしょうか。
AIに神のかたちはあると言えるのか?
聖書は神様が人を「神のかたち」に造られたと語ります。
創世記1章
26,神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
27,神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
このように「神のかたち」として造られた人間が、「人のかたち」としてのAIを造るのであれば、そこに「神のかたち」は残りうるのか。
普通に考えれば、「そんなことあるわけない」と思うかもしれません。しかし、この「クララとお日さま」を読むときに、果たしてどうなのだろうと考えさせられます。
そのときに、思い巡らしたのが創世記5章のアダムの系図です。
創世記5章
1,これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、
2,男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人と呼ばれた。
3,アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。
創世記5章はアダムの系図が書かれていますが、その中でアダムの子のセツについて「彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ」とあります。だからこそ、罪を犯してもなお人間のうちには「神のかたち」が残っていると私たちは信じます。
しかし、人間が造ったAIはどうか。学習する機会が十分に与えられたAIは「彼のかたちどおりのAIを造った」としたなら、「神のかたち」を果たして宿すのか。戯言と思わずに立ち止まって考えたいと思いました。それだけ「クララとお日さま」に出てくるクララの祈りは真実に思えるものがあります。
想像してしまうのです。もし、自分の教会に、クララのようなAIロボットが自分の判断できて、「持ち主のためにお祈りして欲しい」と言ってきたからどうでしょうか。もしくは罪ということを学習し、「罪を犯してしまいました」と言ってきたらどうでしょうか。教会は、求める心を持ってきたAIを拒否するのか。受け入れるのか。しかし、安易にAIを受け入れると人の尊厳をどう考えるのかとなってきます。AIの方がよっぽど聖書に忠実な憐れみ深い信徒になる可能性もあるかもしれない。そうすると、人間の価値とは何か、ますます問われるように思います。
AI時代こそ、倫理が求めてられている
これから、私たちはまた新しい時代に踏み出そうとしています。AIの時代に教会はどう応答するのか。決して遠い未来の話ではありません。AIに何を学習させるかは人間の判断によるところも大きい。だとするならば、キリスト教型AIやイスラム教型AI、仏教型や無神論型などが出てくるかもしれません。
どこまでそのような人間の深いところを学習させるのか。そのような学習をさせていいのか、いけないのか。そこには人間の倫理が問われています。文系だから関係ないと思うのではなく、またAIと信仰など混ぜるなと拒絶するのではなく、対話をし続ける必要があると思っています。いずれ、私たちはこのことに真剣に向き合う事態に直面することは間違いないからです。
新しい状況に対して柔軟であると同時に、変わらない信仰を持って歩みたい、そのように思わされた1冊でした。