こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。

8回目はルイザ・メイ・オルコットの「若草物語」です。「若草物語」というタイトルは知っているのではないでしょうか。その昔、名作劇場でアニメにもなっていましたね。古き良きアメリカの家庭の四姉妹の物語として有名ですよね。

数年前に改めて小説として読んで驚きました。これはクリスチャンが読むと、物語の多重性に気付かされます。この小説は、「天路歴程」という古くからクリスチャンの間で読まれている物語がベースになっているのです。

 

「天路歴程」とは?

「天路歴程」については、ウィキペディアに次のように説明されています。

『天路歴程』(てんろれきてい、英: The Pilgrim’s Progress[1]、 Part I (1678年)正篇、 Part II (1684年)続篇)は、イギリスのジョン・バニヤン(バンヤン、バニャンとも)による寓意物語。

プロテスタント世界で最も多く読まれた宗教書とされ、特にアメリカへ移住したピューリタンへ与えた影響は『若草物語』にも見える。

“City of Destruction”(「破滅の町」)に住んでいたChristian(クリスチャン、基督者)という男が、「虚栄の市」や破壊者アポルオンとの死闘など様々な困難を通り抜けて、「天の都」にたどり着くまでの旅の記録の体裁をとっている。

この旅はキリスト者が人生において経験する葛藤や苦難、そして理想的なキリスト者の姿へと近づいていくその過程を寓意したものであり、登場人物や場所の名前、性質などは、それらのキリスト教的な人生観・世界観に基づくものになっている。

「天路歴程」は私も小さい時にクリスチャンの両親から絵本で読んでもらいました。すごくリアルな挿絵の絵本だったので、恐怖を覚えながら読んだのを覚えています。

物語としても、読んでいて面白いのですが、それだけではなく、クリスチャンからすると、自分たちの信仰の人生の歩みと重なり合わせて、励まされたり、心備えをしたりするものになっています。

「若草物語」はまさにこの「天路歴程」を題材としながら、自分たちの時代の物語にしています。

 

苦難の時代を乗り越える共通の物語がある

「若草物語」の最初の章でお母さんが四姉妹に次のように語ります。

「みんなおぼえていますか、あなたがたがまだ小さかったころ、よく『天路歴程』をして遊んだのを?重荷の代わりに私の小布袋をしょわせてもらって、帽子と杖と巻物をもって、地下室からずっと家中を遍歴して歩くのほどお気に入りの遊びはなかったのよ。その地下室は『滅亡の町』で、そこからだんだんお家の屋根の上までのぼっていって、そこで天国をつくるためにいろいろな美しい物をみつけるんでしたね」

四姉妹の父親は従軍牧師として戦争に出ていっています。つまり、物語は戦時です。そして、家庭での生活は厳しく、姉妹たちは不満を抱えていました。そこに父親からの手紙が届き、父親が自分の不在の期間にも娘たちが「おのれ自身に美しく打ちかつ」ことを願っていることが伝えられます。

その手紙に娘たちは自分たちは胸を打たれ、生活を改めようとします。その時に、母が上記のようなことを語ったのです。

この家族では幼い時から「天路歴程ごっこ」をしてきたというのです。「天路歴程」のいくつかの場面を家族でお芝居として演じてきたようです。母親は父不在で戦時下の今こそ「天路歴程」を思い出して歩もうと励ましているのです。「天路歴程」の主人公であるクリスチャンは天を目指して歩む旅の中で、幾多の苦難に会いながらも、助けてくれるものたちが与えられて、天へたどり着きます。同じように、自分たちもこの苦難の中をクリスチャンのように歩むように励ますのです。幼い時のようなお芝居をするのではなく、今の苦難の時がまさに「天路歴程」の物語なのだと理解して、自分たちを主人公のクリスチャンとして生きるのです。

現代の私たちが読むと、なかなかついていけない価値観もあります。というよりも「若草物語」の時代のアメリカの人々の価値観が反映されているのですから、無理に「若草物語」を理想化する必要はないと思っています。ここから私たちが学べるのは、家族に「共通の物語がある」ことの強さです。

この家族には「天路歴程」という共通の物語があることで、今自分たちが置かれている状況を、その物語を手がかりに解釈します。今、直面している状況への解釈が与えられるということは、その状況への対応も見えてきます。それは独りよがりではなく、家族みんなが同じ物語によって、指摘し合うことでより強力なものとなります。

人間にとって、意味のわからない苦しみほど辛いものはありません。しかし、苦しみに意味を与えたり、解釈が与えられれば、立ち向かう力になります。

 

聖書の物語を共有していることの力強さ

物語を通して現実を解釈するというのは、「天路歴程」に限ったことではなく、そもそもの聖書がそのことを私たちに示しています。

ヘブル人への手紙12章

1,こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

2,信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

3,あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

ヘブル11章は旧約の信仰者たちの姿を列挙して語ります。その信仰者たちの物語と、今苦難の中に置かれている読者を重ね合わせながら、立ち向かう力としようとします。そして、何よりも力強い物語はイエス・キリスト、この方のうちにあります。

私たちのために苦難の道を歩み、その先に復活の栄光に入られました。地上ではイエス様も苦しまれました。けれど、その先に栄光が待っていた。だからこそ、苦難の中にある読者への励ましとなるのです。それは、いつの時代の信仰者たちにとっても同じです。聖書の物語、イエス様の物語に私たちは生きることができます。そこから、今を理解することができます。

 

古くて新しい共通の物語に生きる

「若草物語」はただ題材として「天路歴程」を取り上げているだけではなく、物語の構造や登場人物まで緻密に「天路歴程」と重ね合わせながら書かれています。どれだけオルコットが「天路歴程」を読み込んでいたかがよくわかります。また、それだけ当時の人々にとって、共通物語として受け入れられていたかが見えてきます。

しかし、「天路歴程」と「若草物語」の間には200年の隔たりがあります。また物語が書かれた場所もヨーロッパとアメリカで違います。歴史や文化、環境の違いを超えて、「今の時代」に物語を読み込んでいくところに力があります。私たちも「天路歴程」や「若草物語」を、「今私たちが生きている時代」に読み込み、共通の物語にすることはできるのではないかと思います。

今の時代は、たくさんのアニメやドラマ、映画で溢れています。それぞれいいものがいっぱいあります。しかし、逆にたくさんありすぎて、家族や社会の共通の物語にまでなるものがありません。物語は消費されていくものになっています。一つの物語をするめをしゃぶるように、味わうことがなくなっている。そこが今の社会の課題だと思わされています。

本当に必要なのは、たくさん知っていることよりも、知っていることがどれだけ自分たちのものになっているかであると思います。知っていることは僅かであっても、その知っていることにとことん生きる時、それは広がりを持っていきます。

クリスチャンには聖書があります。また、この「天路歴程」があります。たくさんじゃなくていいので、みんなで共通の物語を握っていたい。そう願わされます。幼い子どもたちがこれから苦難に直面した時に、「聖書のあの物語と一緒だよ」「天路歴程のあの場面じゃない?」と語れるようになってほしい。物語が消費されていく時代にあって、消費されることのない、生きた物語を語っていくものとなりたいと願います。