こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。
9回目はスコット・ペックの「平気でうそをつく人たちー虚偽と邪悪の心理学」です。1983年にアメリカで出版され、ベストセラーとなった本です。日本では1996年に出版され、現在広く認識されるようになった「毒親」問題を考えさせる1冊となったと言われています。
ただ、この本は決して学問的な心理学の本ではありません。これはクリスチャンの精神科医が向き合い、取り組んできた現場からの問題提起となっています。ですから、これは信仰書として受け止めた方が良いと思っています。向き合うことが困難な人との関わりについては、別の本と合わせて読むことをお勧めします。
しかし、だからと言ってこの本の価値が下がるわけではありません。ある意味で学問の分野では解決し得ない「悪」や「善」についての問題に正面から取り組んでいるからです。「悪」や「善」は客観的に観測できるものではなく、何かしら宗教的・道徳的基準から見た判断です。それゆえ、心理学というもので捉え難いものがあります。
ですから多くの場合、善悪ではなく「病気」の問題として理解しようとします。しかし、著者によると「病気」として医療現場に来る人の背後に、その人を「病気」に追いやる人がいることを指摘します。そして、そのように人を「病気」にさせる人は、社会的・日常的にはある程度は問題なく生活していることが多く、本人が意識的に自分が問題を抱えていると認識していないというのです。著者はここにメスを入れようとします。
著者は邪悪性について次のようにまとめています。
「邪悪性とは、ごく簡単に定義するならば、誤った完全性自己像を防衛または保全する目的で、他者を破壊する政治的力を行使すること」
例えば、親が子どもをいつまでも「親と子」という支配関係を続けようとして、意識的にか無意識的にか、子どもを圧迫するような起こります。子どもが次の日に学校の大事なテストや仕事があっても、お構いなし手伝いをさせたり、自分の都合に付き合わせる。そうして、失敗すると「ダメな子」というレッテルを貼り続け、親としてあり続けようとします。結果として、子どもが鬱的な傾向になってしまったり、大人になってから問題行動を起こしてしまったりすることが起こります。病院に来るのはこうした子どもたちです。
親が自分の立場を守ためであれば、子供を平気で傷つけてしまう。「そんなばかな」と思うかもしれませんが、現実の世界でそれは親子関係のみならず様々な場面で見られます。夫婦関係や会社の人間関係、そればかりか国家という単位でも起こるといいます。自分たちのメンツのためであれば、平気で残虐な人殺しをしてしまう。著者はこれらの背後に悪の根源を見ています。
本来は完全なんかではない親や夫、上司、教師、大統領などが、「自分はパーフェクトだ、間違うはずがない」と口には出さなくても、そう思っていると、その完全な自己を守るためであれば、相手を平気で傷つけてしまう。そうして、被害者が続出するわけです。しかし、当の本には平気で生きている。ここに問題があります。これは病気という枠に入らなけれど、確かに存在する問題であり、これが「悪」の問題として見る必要があるのです。
「なぜ悪があるか」ではなく、「なぜ善があるか」と考える
私たちはこういう邪悪と思える人たちに直面し、苦しむ人がいると、「なぜこんな悪があるのだろう」と考えます。特に神様を信じるものにとっては、この問題はつきまといます。しかも、表向きは信仰的に見せている人の中に、そのような平気で人を傷つける人がいることもあります。だからこそ、「なぜこんな悪があるのか」と嘆きたくなります。
そのことに対して、著者は次のように語ります。
この世は本来的には悪の世界であって、それがなんらかの原因によって神秘的に善に「汚染」されていると考えるほうが、その逆の考え方をするより意味をなすものかもしれない。
この世界をありのまま見るときに、「世界は良いものだ」とはとても思えない。むしろ「良いものはいずれ悪くなる」ということが当然だ言うのです。食べ物は放っておけば腐ります。整頓していた部屋は放っておけば散らかります。平和が訪れても、その平和はいずれ乱れます。放っておいて、良くなることというのはまずないのです。
そうすると、世界の国々ができてからこの方、長い年月が経っていることを考えると、基本的に世界は悪くなることの方が自然であると言えるのです。そんな悪くなるはずの世界に、不思議なことにも善がある。そして、しばしばその善が広がりを見せる時がある。それはむしろ不自然なのではないか。そこにむしろ不思議なものを覚えるのです。
人間の邪悪さの極みの十字架から、愛や善が生まれた
著者は、さまざまな世界に溢れる邪悪さを見つめます。しかし、そこで絶望しません。なぜなら、邪悪さが必ずしも勝利を収めるわけではないことを実際に現場で観察している。邪悪さの極みのような状態が不思議と良い方に改善していく。そのことを著者はキリスト教信仰から理解します。特に、それを十字架に見ます。
「キリストを十字架にかけたのは邪悪な人間たちであったが、そのおかげでわれわれは、遠く離れた場所からキリストの姿を見ることができるようになった」のである。
イエス様を十字架につけたのは、宗教的に正しいと言われる人たちでした。彼らは、自分の立場を守るために、無実のイエス様を冤罪で十字架につけたのです。それは、人間の邪悪さの極みのような光景です。
言ってみれば、イエス様は邪悪な人間による冤罪の犠牲者です。しかし、それで終わりませんでした。その十字架において逆転が始まります。十字架こそ多くの人々の救いとなったのです。
犠牲者が勝利者になるといったことが、どのようにして起こるのか私は知らない。しかし、それが起こることだけは知っている。善良な人がみずからの意志で他人の邪悪性に刺され──それによって破滅し、しかもなお、なぜか破滅せず──ある意味では殺されもするが、それでもなお生きつづけ、屈服しない、ということがあることを私は知っている。こうしたことが起こるときには、つねに、世界の力のバランスにわずかながらも変化が見られるのである。
著者はこのイエス様の十字架による邪悪さが救いに変わるような光景を見てきています。邪悪さは邪悪さで終わることがない。それをどうしてそうなるのか説明することはできない。けれど、確かにそれが起こるのです。だから、不思議とこの世界は悪に汚染されることなく、愛や善などが生まれていきます。そして、クリスチャンが願うのは、この十字架によってこの救いの善が広がっていくことです。
この地上で悪に立ち向かうのは愛、共感である
著者はこのようなイエス様の姿を思いながら、この地上で愛によって立ち向かうことを呼びかけます。また単純に自分を善の側に置くことを警告します。
「神の加護がなかったならば自分もそうなっていただろう」という内省こそ、他人の悪を判断する際につねに忘れてはならないものである。
神様の恵みなくしては自分も邪悪なものになりかねない。その自覚はとても重要です。そして、その自覚があれば、邪悪なことをする人に対しても、ただ切り捨てるべき人としてではない向き合い方が導かれます。そして、その秘訣は愛だと語ります。
愛の道は、対立するもののあいだの動的バランスであり、安易な両極端の道ではなく、その中間にある不確実性の苦痛を伴う創造的緊張の道である。
これについては、子育てを考えてみればわかる。子供の誤った行動のすべてを拒否することは、愛のない育児である。また、子供の誤った行動のすべてを容認することも、愛のない育て方である。子供を育てるときには、なんらかのかたちで、寛容と非寛容、受容と要求、厳格性と柔軟性の両方が必要となる。相手にたいする、ほとんど神に近い共感を必要とするのである。
言い古された言葉かもしれないけれど、最後は愛なのだと語られます。しかし、その愛の道も「創造的緊張の道」と語り、バランスを追求するようなあり方です。一方的な否定でも肯定でもない、「共感」とまとめます。
この本は決して学問書ではありません。異論や反論もあるでしょう。しかし、クリスチャンがこの世界をとらえる時に非常に良い示唆を与えてくれます。ただ、病気というくくりではない、悪の問題、その反対にある愛の問題。そのことに誠実に向き合いたいと思わされます。
そして、この本が語るように、悪が支配しているような極みの状況でも、十字架を信じます。その邪悪さの極みの先に救いが待っています。