こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。
10回目はダニエル・デフォーの「ペスト」です。「ペスト」というとカミュの「ペスト」が最近では有名ですが、こちらは「ロビンソン・クルーソー」で有名なダニエル・デフォーが書いたものです。1665年にロンドンを襲った疫病であるペストがどのような被害をもたらしたかを克明に描いている作品で、カミュの「ペスト」以上にジャーナリズムの性質が強いものになっています。
後書きを読むまで知らなかったのですが、この作品はまるでデフォーが実際にその当時にロンドンにてこの災難を体験したかのように書かれていますが、実際はペスト流行時デフォーは5歳で、直接体験したのではなく、当時の資料を集め、人から話を聞いて書いたフィクションの形をとっています。しかし、内容としては真正な当時の資料に基づいているので、まるで本当にそこに作者が実際にいたかのような迫ってくるものになっています。
現在のコロナ禍で読んでいると、驚くほど現在の状況と重なるものがあります。ペストは感染してから発症するまでに1〜2週間潜伏していたようで、どこから一体感染したのか特定できないことや、元気に出歩いているうちに感染させてしまっているなど、本当に昔のものだろうかと驚きます。もちろん致死率は圧倒的にペストの方が高く、ロンドンの人口の1/5が死んでしまったと言われているので、もっと悲惨です。けれど、時期によって強毒化して大変なことになったり、最後は突然弱毒化して収束していくという様子など感染症の様子は、今の状況とこれから先についての参考になります。
また人々の状況がとても克明に記録されています。金持ちたちや地位の高い人がロンドンから我先にと逃げ出したり、街中に「神の裁きだ!」という人が現れたり、「これを飲めば絶対にペストにかからない!」というエセ医者が大儲けをしたりと、混乱していく様子が丁寧に伝えられます。
教会関係で言うと、イギリスは国教会と非国教会とに分かれていて互いにいがみ合っていたのですが、ペストの際にはその違いを超えていきます。国教会の牧師が逃げ出して無牧になった教会で、非国教会派の牧師が説教をするなど、危機に際して助け合う姿も見られます。そして、人々が危機に際して、それまで以上に熱心に神様を求めて礼拝に集う姿や、ペストが過ぎ去ってから誰もが神様に感謝する様子が伝えられ、かつてのロンドンがとても信仰的だったことが伝わってきます。
たくさんのことを考えさせられるのですが、この作品の中で現代にも通じる大事な問題があります。それは「危機の際に『神様を信じる』ものはどのように考え行動すべきなのか」と言うことです。
御心はロンドンを離れること?とどまること?
この「ペスト」の主人公はお兄さんがいます。二人とも神様を恐る人たちなのですが、ペストの流行に際してとった行動は異なっていました。
兄ーペストに対しては逃げるのが最善の予防法
弟ー商売もあるから離れられない。自分の命は神様にお任せする
兄は弟が「商売もあるから、神様にお任せする」と言って、ロンドンに残ることに対して、真っ向から批判します。「神様にお任せするのは、命じゃなくて商売の方じゃないか」。その通りと思わされます。
弟である主人公はそれでも、ロンドンを離れることを躊躇します。次第に、商売だけではなく、神様がこの時本当に何を自分に導かれているのか考えるようになります。そして、神様が自分にとどまれと言われているように思い始めます。神様が導かれているのなら、きっと命は守られるだろうと考えます。
しかし、また兄は経験上、弟を諭します。
兄ーある地域の人たちは予定説に固執して、人間の死は前もって定められているのだから病気を予防するなど無意味だと考えた。それで、その地域の人たちは疫病が流行していても普通に生活していたので、ものすごくたくさんの人が死んでしまった。それって、信仰的なようでいて、これはただの人間の傲慢じゃないか?
これを聞いて弟はまた悩みますが、考えを思い巡らす中で、祈り御言葉を読みます。そして「わが時は神の御手の中にあり」(詩篇31:15)の言葉に確信をもらい、元気であっても病気になっても神様の御手があることを信じて、とどまる決意をします。そして、このロンドンの疫病の様子を記録することをまた使命とします。
けれど、「普通なら逃げ出すのが絶対にすべきことだ」と作中何度も語ります。あくまで自分は無謀にやっているのではなく、神様からの召された証人としてとどまっているだけで、全ての人にそのようには勧めていません。
御心とは何か、祈り向き合う
このやりとりを読むときに、私はとても素晴らしい信仰者たちの姿を見たように思います。それは、「御心とは何か」「委ねるとは何か」をそれぞれが祈り、考えて行動しているところです。
兄がロンドンから地方へ疎開することもまた信仰です。ロンドンに仕事があるからといって、とどまるのではなく、家族もいる身として神様から与えられた命を守る決断をします。仕事のことは委ねてしまっているのです。それもまた信仰の行為です。
弟である主人公もまた祈りのうちに出した結論として残ります。これもまた彼の信仰です。彼はまだ若く独身であったこともあり、このペストの惨劇の証人となるよう導かれました。
残る人には、残る大切な意味があります。ロンドン市長はじめ行政に関わる公務員たちが皆残って働き、その職務を全うしています。そして、公務員の多くが貧しい人や病人と関わることでペストの犠牲になっていきます。それでも、与えられた働きを全うしていきます。そのために、ロンドンで貧しい人たちが少なくとも食料やお金がないといって窮乏することはなかったとあります。行政が行政としての働きを放棄せずに、仕事をした結果です。後書きを読むと、その背後には「労働することは祈ることだ」というモットーがロンドン市民にはあったとのことです。まさに祈りながら自分の働きに従事した人がそこにはいます。
どの行動をとっても、ただ神様の憐れみ以外ない
逃れるのも信仰、とどまるのも信仰でした。もちろん、自己中心的な理由で職場放棄してしまう人たちもいました。ただただ怖かったのです。けれど、この主人公はそのような人を責めません。その恐ろしさを身をもって体験したものとして、逃げ出してしまう人の気持ちも理解しているのです。ここにとても寛容な信仰者の姿があります。
とどまったことも決して信仰が強かったからではない。ただそれも神様の憐れみだったと信じているので、誇ることができないのです。自分も状況が少しでも違えば逃げ出しただろうと思っているのです。とどまれたのは、そこに神様からの使命があったから、それだけなのです。
現在のコロナ禍においても、私たちはそれぞれにどう行動すべきか悩んでいます。牧師であれば、礼拝を会堂で継続すべきか、閉じるべきか。開いていることが信仰的なのか、閉じるのは不信仰なのか。気をつけないと、私たちはそれぞれの行動を裁いてしまいます。このような時だからこそ、お互いの行動のうちに、「祈り」をみたいと思います。たとえ、祈りではなく、「恐れ」からしたことであっても、その恐れを受けとめたい。人間はそんなに強くなければいけないのではない。ただみんな神様の憐れみによる。そこに立ちたい。
そして、全てのことが終わった時に、「ああ、神様感謝します」と皆で主をほめたたえたいと願います。
クリスチャンにとって素晴らしく考えさせられる本なので、ぜひ皆さん読んでみてください。