こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。
11回目は広田叔弘「詩篇を読もう」です。これはFEBCというキリスト教放送局の中で、放送された説教をまとめたものとなっています。
私は神学生の時にFEBCで広田先生の説教にたまたま(御心?)出会い、非常に衝撃を受けました。その時はマタイの福音書から語られていたシリーズだったのですが、私がこれまで聞いてきたどの説教とも違って、引き込まれていきました。(FEBCの広田先生のシリーズ)
広田先生の何に一番私が心を捉えられたかというと、そこには「私たち日本人と同じ顔をしたイエス様がいる」ということでしょうか。それは、決して変に日本人に引き寄せようとしているわけではありません。それでも、広田先生のまるで日本昔話を語る言葉の中に、私たちと同じ顔をして、私たちを理解してくれるイエス様がそこにいるように感じたのです。
私は大学生時代にアメリカ経由の学生伝道団体に参加していました。とてもいい団体で今でも良い思い出なのですが、一つ違和感を覚えたのは、どこか「イエス様ではなく、ジーザス」だったことです。宣教師の先生たちだけではなく、日本人のスタッフや参加している学生もどことなく、雰囲気がアメリカンだったのです。「ジーザスはあなたを愛しているYO!」というのも、またフレンドリーでいいと思いますが、どこか聖書の語るイエス様の姿がどんどん「私と違う異国人」になっていったのを思い出します。
福音派の説教はみんなどことなくアメリカやヨーロッパの香りがする気がするのは私だけでしょうか。もしくはリヴァイヴァリズムという独特の雰囲気の中の「神、罪、救い!」のツールと化したイエス様というものを感じるところがあります。
そのような中で、広田先生の説教は衝撃でした。「ここには日本人の私を知っていて、語りかけてくださるイエス様がいる!」これは実際に聞いたり、読んだりしていただかなくては伝わらないものがありますが、この詩篇の説教集はその広田先生の語る姿が浮かび上がってくると思い、紹介させていただきます。
前書きに次のようにあります。
「私が意を注いだのは各詩にある歴史的な背景です。もちろん、詳細にわかっているわけではないのですが、それぞれの詩が生み出された背景を大切にしました。…できるだけ言葉が生み出された歴史的な背景と、その時を生きているうたい手の心を考えて、各詩を理解するように努めました。」
先ほど「日本人の顔をしたイエス様がいる」と書きましたが、この詩篇には「私たち日本人と同じように悩み苦しむ詩人」がいます。といっても、ユダヤの状況を踏まえて、丁寧に語られているのですが、そのユダヤ人の詩人の心は、西洋的な私たちと異質な人ではありません。私たち日本人と同じ感情をもち、同じような状況に悩み苦しむ実在の人間の姿です。
そして、ただ当時の状況、当時の人の心情を語るだけではありません。そこにイエス様を見ます。
「私は聖書に正解という解はないと考えています。…しかし、千変万化ということではありません。聖書には一本の柱があります。…聖書に立つ一本の柱、それは『イエスはキリストである』。…この福音を信じる信仰に立って、聖書の言葉を聴き続けたいと思います。」
詩篇を無理やり十字架に結びつけるわけではありません。それでも、詩篇の置かれている人間の悩み苦しみに対して、イエス様がどのような救いをもたらされたのかが、詩篇をイエス様と一緒に読んでいるような思いがいたします。
神学生の時に、一度だけ直接広田先生にお会いする機会が与えられました。その時にご自身経験されてきた若い日の苦しみなどをお話ししてくださいました。その時に語ってくださった言葉が今でも私の心から離れません。私が先生の説教についての感想をお伝えしたところ次のように語ってくださいました。
「分かる言葉で話すことは心がけています。福音は綺麗事じゃないですからね。」
綺麗事じゃない福音。日本に生きる日本人の悩み苦しみ、そこに注がれる福音の光があります。広田先生ご自身が綺麗事では済ままない現実を生きてこられたからこそ、伝わってくる言葉があります。