こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。

13回目はエレナ・ポーター「少女ポリアンナ」です。これはかつてテレビアニメにもなっていたので覚えていらっしゃる方もおられるのではないでしょうか。あらすじは以下のようなものです。

両親を亡くした11歳のポリアンナは、気むずかしい叔母、ミス・ポリーのもとに引き取られた。ポリアンナはどんなに辛いことがあっても、その中に「嬉しい」ことを見つけるとたちまち元気になれる。そのお父さんとの約束、「嬉しい探し」ゲームは街中に広がり、ミス・ポリーや大人たちとの冷たい心を変えていった。ところがそんなポリアンナが交通事故にあってしまい…。(Amazonより

ポリアンナと言えば「よかったさがし」が有名でしょう。どんな苦境に陥っても、その中から喜びを探すゲームです。生前に父親がポリアンナに教えてくれたゲームでした。このゲームをポリアンナが自分だけではなく、周りの人と一緒にしていくことで、周囲の人々のうちに喜びが溢れていくようになります。

「よかったさがし」とアニメではありますが、これは原語では「Glad Game」であり、村岡花子はこれを「喜びの遊び」と訳しています。私はこちらの方がより元の意味を表しているように思います。というのも、このポリアンナの「よかった」とはただの「いいこと」ではなく、お父さんが聖書の中に「喜び」についての聖書箇所を発見していったところから始まるからです。

ポリアンナの父親は牧師でした。教会の牧師をしていて大変なことがあったときに、支えになったのが「喜びの聖句」だったのです。

「もちろん聖書の中にそんなページはありません。ただそういう言葉はどれも、『主にあって喜びなさい』とか『大いに喜びなさい』とか『歓声をあげなさい』とかで始まるんです。あのね、とてもたくさんあるんですよ。一度父さまがとても気持ちが沈んでいた時に数えてみたら、そういう言葉が八百もあったんです。」

「…もしも神様がわざわざ八百回もかけて、人間に喜びなさい、楽しみなさい、とお伝えになったのなら、少なくとも時々はそうするように望まれたに違いないと、父様は言ってました。それから喜びの聖句は、父様の大きな慰めになってくれたんです。」

神様が私たちに喜んでいることを望んでおられる、だから生活の中で喜びを見つけて、喜んでいよう。それがポリアンナの父親の信仰の姿でした。その父親の姿を見ていたポリアンナが父親のように喜びを見つけながら生きていく。そして、そのポリアンナの姿がまた周りの人々を慰め、励ましていく。素晴らしい喜びの連鎖がここにはあります。

 

痛みや悲しみを知った人の喜びだから届く

ポリアンナについては、「ポリアンナ症候群」「ポリアンナ効果」という二つの心理学的な見地があります。ポリアンナ症候群とは、直面している問題の負の面から目を逸らし良い部分だけ見ようとする現実逃避的な心的な症状として説明されています。要は、無理して「よかったさがし」をしてしまって、その時々の感情に蓋をしてしまう問題です。またポリアンナ効果は、ネガティブな言葉よりもポジティブな言葉の方が大きな影響をもたらすというものです。心理学でこのように取り扱われるほど、この小説が社会に与えた影響の大きさを感じます。

私はポリアンナを読むときに、率直に励まされます。小説の中の多くの人々がポリアンナから励まされているように、読者も励まされます。それは、ただ喜んでいる人が心地よいというものではありません。それは、ポリアンナの喜びが、悲しみを十分に知った上で聖書を通して与えられた喜びに出会っているからでしょう。

「喜べ!」というのは、ある時には暴力的になってしまいます。悲しむことが必要な時も人にはあります。しかし、本当に悲しみを知った人が、それでもなお喜びを手にしているとそこに癒しを覚えます。

ポリアンナの「喜び」は決して暴力的ではありません。疲れているお医者さんには、その仕事の尊さを励まし、悩んでいる牧師には自分の父親が苦しんでいた姿を重ねながら伝えていきます。ポリアンナは人を尊敬し、人を愛している。それは上からの高圧的なものではなく、同じ目線かむしろ下からの喜びの姿です。

 

ポリアンナの土台を築いた父親の愛と率直さ

この小説に父親は出てきません。けれど、ポリアンナの言葉と姿からまるで生きているかのように見えてくる気がします。このポリアンナの真の主人公は父親ではないかと思います。

アニメ版でのお父さんは、病弱で苦しそうで幸せそうに見えません。しかし、小説を読んでいると、何かいつもニコニコしているように見えます。娘と一緒に小さなことを喜び、楽しむ。貧しくても、体が弱くても喜びがある。そんな人に映ります。だからこそ、ポリアンナもそのようなニコニコして、喜びに溢れている少女に育ったのではないかと思います。

ポリアンナの父親は若くして妻を失い、また自分も幼い子どもを残して死んでしまいます。牧師としても父親としても、もっとしたかったことがあるのではないかと思います。けれど、死してなお語っているように思わないでしょうか。しかも、素晴らしい影響を娘を通して周りの人に与え続けている。私は小説の中とはいえ、このポリアンナの父親をとても尊敬し、一つのモデルように思っています。

特に私は娘を持つ父親として今、新たな思いでポリアンナとその父親について考えます。そして、自分が父親としてできることはなんだろうと思った時に、何より大事なのは娘を愛すること、そして一緒に人生を喜び、楽しむことではないかと思っています。辛いこと、苦しいことも率直に分かち合い、そこを共に超えていく。ポリアンナの父親のような愛と率直さ、そして与えられた人生を喜び、楽しむものでありたいと願います。

そのために、必要なのは父親である前に一人の人間として、神様から愛されて喜んでいたい。ポリアンナの父親が聖書から喜びを見出していたのは、まさに神様から愛されている喜びを感じていたからではないでしょうか。その神様からの愛が溢れて、周りの人を自然と愛するものとなる。ただ、神様に愛される。そこから溢れ出る喜びに生きる。そうありたいと願います。

「こういうわけで、いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(Ⅰコリント13:13)

子育ては、自分育てから始まるのかもしれません。自分は神様が育ててくれる。自由な心で神様の前で育てられ、その愛で子どもを育てるものとさせていただきたい、そう願わされます。