こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。
15回目は平野啓一郎「本心」です。平野啓一郎さんは芥川賞を受賞された作家さんで、最近では映画にもなった「マチネの終わりに」が有名ですね。私は平野啓一郎さんの小説で最初に読んだのは「ある男」でした。この本がとても面白かったのでそこから興味を持っていました。そんな平野啓一郎さんの最新作が「本心」です。あらすじは以下の通りです。
舞台は、「自由死」が合法化された近未来の日本。最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた息子は、「自由死」を望んだ母の、<本心>を探ろうとする。
母の友人だった女性、かつて交際関係のあった老作家…。それらの人たちから語られる、まったく知らなかった母のもう一つの顔。
さらには、母が自分に隠していた衝撃の事実を知る── 。(『本心』特設サイトより)
あらすじだけ読むと、何か近未来的なSFという感じがします。死んだ人間をヴァーチャル世界に再現するというなんだか恐ろしい世界で、しかも「自由死」という実際に実現しそうな未来の社会問題の予言書のようなものかと思っていました。
しかし、実際に読んでみると、そんなとっぴなものでは無く、むしろ普遍的な人間についての物語でした。愛する家族を失った一人の若者の喪失から回復までの物語だと感じました。
以下、多少のネタバレも含んでいますので、ご注意ください。
共同体なき時代のリメンバリング
人間は愛する人を失うことはとても辛いことです。その喪失の悲しみを乗り越えるために様々なことがなされてきました。その一つが、亡くなった人も仲間に加え続けるということです。これをリメンバリングと心理学では呼んでいます。
この「本心」の主人公がお母さんをヴァーチャルにに再現しようとしたのは、本心を知りたいという思いと同時に、まだ家族でいたい、一緒にいて欲しいという思いではないかと思います。
日本では昔からお盆の時期になると、死んだ人が戻ってくると考え、親族が集まります。そうして、亡き人も仲間に加えて楽しい時間を過ごします。まるでその亡くなった人がまだ仲間であることを確認するかのように行われます。それをすることが、喪失の悲しみを和らげる働きを持っていると言われています。
今の時代は共同体が失われてしまっています。特に都市で生活をしているものにとっては、家族共同体はないようなものです。しかし、喪失の悲しみは消えません。だからこそ、このようなお母さんをヴァーチャルに生活に戻ってきて欲しいということは根源的な欲求ではないかと思います。
十分に死後も家族と向き合えばまた歩き出せる
ヴァーチャルなお母さんと一緒に生活をしていると聞くと、異様な感じがします。人によっては「いつまで甘えてるんだ」とか「それは現実逃避だ」というかもしれません。
しかし、この「本心」の主人公は最初はリアルに程遠いヴァーチャルな母を、よりリアルに近づけるために、お母さんと親交のあった人と話をし、協力をしてもらいます。そして、お母さんの死について理解を深めていきます。その新しい人とのつながりの過程で、回復への道をたどっていきます。
愛する人の喪失の後に、遺族の反応は様々です。悲嘆に暮れてしばらく立ち上がれない人もいれば、十分に看取れてもう十分と立ち上がる人もいます。人によってはそれまでしてこなかった突飛なことをし始める方もいます。周りのものたちは、どうしたらいいか戸惑ってしまうこともあります。
けれど、どのような反応であれ、不正解とか不健全ということを人が判断することはできません。その人の思いはその人のものです。時に「失敗してしまった、あんなことするんじゃなかった」ということがあったとしても、それを振り返って反省していいのは本人だけです。ああでもない、こうでもない、何もできない、色々なところを通りながらも、不思議と新しい力が湧いてくる。そこまでの過程は人によって様々です。それでいいのです。
主人公の行動は現代の価値観からすると、「いいの、それ?」と思うかもしれません。社会としての倫理的な問題がないわけではないでしょう。考えるべきはあるにせよ、一遺族としての行動は否定されてはいけないように思います。「こうしたいんだ」という想いに寄り添うこと以外にはできません。周りは、必ず立ち上がる力が起こってくると信じることだけだと感じます。
教会はリメンバリングにどう向き合うか
この本を読んでいて、色々なことを考えさせられました。特にこのリメンバリング、愛する家族の喪失にどう教会が支えになれるのかという問題です。
プロテスタント教会では、死者に語りかけるというのは忌避されるところがあります。それが偶像礼拝と結びつくとされてきました。しかし、果たしてそうでしょうか。亡き人に語りかけるということが、その人を神としているかというとそうではないでしょう。だから決してプロテスタント教会でも、否定されることではないと思っています。
教会はお盆はやりませんが、それでも「〜さんが生きていたらどうするかね」と話すことがあります。それは、その亡くなった人を自然と仲間に加えていることになります。
また私たちの教会はじめ多くの教会では年に一度聖徒記念礼拝(召天者記念礼拝)を行います。先に天に召された方々を思い起こす礼拝です。私たちの教会では召された方々のお名前をお一人お一人読み上げます。そして、この方々が今はイエス様の元にいることを思います。そして、一緒に礼拝しているのだと覚えます。
そもそも、私たちは使徒信条で「聖徒の交わり」を信じると告白しています。聖徒とは生きているものだけではありません。すでに地上の生涯を終えてイエス様の元にいるものたちも聖徒であり、私たちは礼拝において、生きているものも召されたものも共に同じ主を礼拝しています。教会は「死者」も生きていると信じるものたちです。
マタイの福音書22章
29,しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
30,復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
31,それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。
32,『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
イエス様はこのように語り、アブラハムもイサクもヤコブも生きていると語っておられます。死んだ者も神の前に生きている。そう信じることができるのが教会です。
死んでしまった愛する人がまだ生きているということを一人で信じるのは難しいです。けれど、教会で聖書が語られ、共にこのことを覚え続けるのなら、そこに希望があります。よみがえるのだ、そしてまた再び会うのだ。
ゆっくりゆっくりでも悲嘆の悲しみから立ち上がれるように支え合うのが教会に溢れるイエス様の愛です。