こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田です。4月から教会のブログを開始しました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。
さて、今日は教会のお墓事情について紹介したいと思います。教会に来られる方からよく「お墓をどうしたらいいですか?」と質問されることがあります。日本人にとってお墓の問題は家とのつながりを考えさせられる大事な問題ですよね。
教会の基本的なスタンスは「死者はキリストのうちにある、だから大丈夫」とまとめられると思います。つまり、お墓をどうするかで死んだ人の状況に何かしら影響を与えることはないと信じています。教会の墓地に入ろうが、仏式のお墓に入ろうが、その召された(亡くなった)方の魂は一番良い方であるイエス様のうちにあり、地上のことで影響されることはありません。ですから、「こうしなきゃダメ!」ということはありません。
ただ、教会としても墓地があります。私たちの教会は日本バプテスト教会連合の東京地区の墓地を共同利用しています。そして、変な話でが私はこの墓地が大好きです。なぜかというと、教会の墓地には希望があるからです。
「わたしはよみがえりであり、命である」
共同墓地ですので、そこにはたくさんの方の遺骨が埋葬されています。そして、年に一度5月第4日曜日に合同聖徒記念礼拝を行っています。一緒に賛美して、聖書のお話を聞き、故人の紹介がされます。
この墓地の墓碑には「わたしはよみがえりであり、命である」と書いてあります。これはヨハネの福音書からの1節です。
ヨハネの福音書11章
25,イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。…」
「死んでも生きる」とはどういうことかと思われるかもしれません。これは、地上のいのちがたとい終わったとしても、それで終わりではないということです。「そんなのただの想像だ」と思うかもしれませんが、このように語ったイエス様自身がまさに「死んでも生きる」ことをされました。それが十字架と復活です。
イエス様は確かに十字架で死なれました。しかし三日目によみがえられました。復活されたイエス様はただ蘇生したのではなく、全く新しいからだをもってられました。弟子たちの間に突然現れ、またいなくなりということをされて、40日の間弟子たちと共にいて、それから天に昇られました。
教会はこの復活のイエス様に出会ったものたちの集まりです。イエス様が死んでよみがえられたのは、決して自分のためだけのことではありません。イエス様を信じるものたちにも同じように「死んでも生きる」永遠のいのちをお与えになられるのです。
ですから、私たちが墓地に行く理由は、死者の供養ではなく、キリストにある死者は死んでも生きる、そしてよみがえるのだと確かめるためです。
愛する家族を失うと悲しみがあります。十分に私たちは悲しみます。しかし、悲しみつつも、この墓地の前に立つときに覚えます。この愛する人は、死んでも生きる、永遠のいのちに今あるのだと。そして、わたしも同じところを目指して歩むのだとゴールを定めます。
共に悲しみ、共に立ち上がる
個人の墓地であることもいいと思うのですが、共同墓地であることが私はとても良いと思っています。というのも、一緒に泣いてくれる人、一緒に立ち上がる人がいるからです。聖書には次のようにあります。
ローマ人への手紙12章
15,喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
一人で喜ぶのではなく一緒に喜ぶ。そして、一人で泣くのではなく、一緒に泣く。それが教会です。
毎年、聖徒記念礼拝を一緒に行っていますと、新たに納骨される遺族がいる一方、納骨されてだいぶ立つ方もおられます。その様子を見ていると、新しく悲しみの中にある人たちを、かつて同じように悲しみの中にあったけれど、そこから立ち上がった人たちが優しく包み込んでいるように思えます。
もちろん、そんな声かけは互いにすることはありません。しかし、たとい声を掛け合わなくても、毎年集うことでそのような連帯感を抱くように思います。そのような長年集っておられる方たちがいて、新しく納骨される方いる。その様子を見ていると、まるで「大丈夫ですよ、立ち上がる力は神様が与えてくださいますよ」と呼び掛けているように感じるのです。
教会の墓地は教会員の方とそのご家族も入ることができます。何かありましたら、お気軽にご相談ください。