私の好きな讃美歌の一つに「光の子になるため」(讃美歌21ー509番)があります。次のような歌詞です。
「光の子になるため 従(つ)いて行きます。
この世を照らすため 来られた主イエスに。
主のうちに闇はなく、夜も昼も輝く。
心の中をわが主よ、照らしてください。」
この讃美を私たちの教会では子どものバプテスマの時に歌うようにしています。子どものバプテスマは「罪の赦し」よりも、イエス様への「信頼、服従」の面がより大事だと考えているからです。
「イエス様を信じる」と一言で言っても、「罪の赦し」という贖罪的な側面だけではなく、神様の創造者として、また羊飼いとしての導き手としての側面から「イエス様を信じる」ということも十分に大事な面だからです。
ヨハネの福音書8章
12,イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
イエス様はご自分のことを「世の光」だと語られました。そして、従うものはいのちの光もつと教えてくださっています。だから、光であるイエス様を信じて、私たちも光の子として歩むことを願います。
メア・リヒトー「もっと光を」
ゲーテの最後の言葉は「メア・リヒト(もっと光を!)」だったと言われています。その言葉の解釈は様々ですが、何か私にはこの世界で生きるものとしてのうめきのようなものを感じます。私たちはこの世界を見ていると、「もっと光を!」と願います。それだけ、世界の中に暗さ、やみを感じるからです。
それは大人だけではなく、子どもも同じです。子どもも生きていくのに光を必要としています。子どもたちは、子どもたちなりにこの世界のやみに直面しています。そして、自分にうちにもやみがあることにも少しずつ気づき始めます。だからこそ、幼い子どもたちにも光であるイエス様が必要なのです。
今週から教会の子どものためのバプテスマの学びを始めました。一人の女の子のための学びですが、二年前にバプテスマを受けた少しお姉さんの女の子にも一緒に参加してもらっています。
この「光の子になるため」を賛美しながら、歌詞を一緒に読んで、話し合いました。幼いなりにそれぞれ様々な内面のことに向き合っていることを感じます。
子どものうちでも、心にやみを感じる時があります。そして、それは自分の内側からのむくむくとした「やみ」ようなものもあれば、時に人から流し込まれた「やみ」のようなものもあります。
誰かから嫌なことをされれば、私たちのうちにやみが入り込んできます。そのままにしていると、私たちの心もやみに重たくなってしまい、私たちもそれを人に流し込もうとしてしまうかもしれません。
だからイエス様に祈ります。光であるイエス様が私の内側を照らしてくださるようにと。
「主のうちにやみはなく、夜も昼も輝く」
イエス様は十字架という人間のやみの極みにおいてなお、光であってくださいました。いや、むしろ十字架こそが光です。やみの中においてこそ、光は輝きます。
この世界はやはりやみがあります。子どもたちが成長して直面する世界はやはりどこにでもやみが覆っているでしょう。だからこそ、十字架のイエス様のうちに光を見出し続けて欲しい。
そのように願いながら、子どもたちの信仰のために祈ります。この子達が光の子としてやみの中でも希望を抱き、それが世の光となるようにと願います。