こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田です。4月から教会のブログを開始しました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。

さて、今日は「牧師とはどういう人か」ということについて考えてみたいと思います。私はこの清瀬バプテスト教会の牧師ですが、どうしてここの牧師をしているのか、どうやって牧師になったのか、ということ質問されることがあります。

教会によって牧師が選ばれ方は様々です。これは、会衆派であるバプテスト教会の牧師のケースとしてご理解いただければと思います。もちろん、その他の教会の牧師先生の導かれ方と共通しているところもあるかと思います。そういった同じところと違うところも考える機会になっていただければとも思います。

 

神様の呼び声と人(教会)の呼び声を聞いて

どうして牧師になったのかと聞かれたら、私は次のように答えています。それは「神様と教会に呼ばれたから」です。もちろん、私が「お仕えしたい!」という思いもゼロではありませんが、いくら私が「なりたい」と思っても、神様と教会の呼び声なくては牧師になることはできません。

ただ、「神様に呼ばれている」というのは、とても主観的なものです。ある方は「ガーン!」とはっきりとした体験的なものがあるかもしれません。しかし、それは神様と私の間のことであり、それが誰の目にも明らかになることはありません。

けれど、この「神様に呼ばれている」という自覚、「召命」なくしては、この働きはとても続けられません。「自分ならやれる!」と思って始めると、苦難や試練が起こった時に、「あの時やれると思ったのは間違いだったのか?」と思ってしまうかもしれません。実際、牧師職は「とても自分にはできない」と思うことが何度もあります。しかし、その「自分にはできない」時にこそ、「神様がしてくださった!」という経験をしていきます。

乱暴な言い方かもしれませんが、「神様、あなたが呼んでくださったのだから、責任とってくださいね!」と言えると思っています。私はよくそんなことを思っています…。そして、実際ここまで確かに神様は私の思いを超えて、ここまで責任をもって導いてきてくださいました。

 

教会の呼び声もまた大事な声

しかし、もう一つの大事な声があります。それが「教会の招き」です。私たちバプテスト教会では、牧師は教会に招聘されます。団体から派遣されるのとは違い、教会が祈りのうちに牧師を探し、「この人!」という人を選び、総会で決議して招聘するというシステムをとっています。

それは、教会の信徒一人一人のうちに、神様が思いを与えて下さり、その決議のうちに神様の御心が現れると信じるからです。その教会から呼ばれた声の中に、牧師は神様の呼び声をまた聞きます。

教会の決議というのは、客観的な事実です。「神様の呼ばれた」という主観的なものが、客観的な見えるかたちになるので、これは牧師の召命の大きな支えになります。神様と人とに呼ばれる、これが牧師をさせていただく根拠です。

 

牧師と教会は互いに誠実であるように召されている

バプテスト教会では牧師は「降ってくる」のではなく、祈りのうちに自分たちで選び、招きます。その関係は結婚に似ています。お互いに「この人(教会)が神様の選んだ人(教会)」と信じて歩み出します。

だからこそ、お互いに誠実であることが求められます。牧師は教会に対して、教会は牧師に対してです。ですから、教会と牧師の関係は上下関係ではなく、パートナーです。もちろん、「教え、導く」という働きが牧師にはありますが、それは神様から与えられた一つの働きであり、教会が「主に仕える」という働きが同様に神様から与えられているのと同じです。していることの違いはあっても、神様の前では同じ人であることに変わりはありません。

現実の夫婦関係が難しい時期があるように、教会と牧師も難しい時もあるかと思います。だからこそ、互いにいつも「召されている」というところに立ち返り続ける必要があるように思います。

ペテロの手紙 第二1章

10,ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。…

牧師だけが神様に選ばれたわけではなく、教会もまた召された存在です。互いに間に、神様の召しと選びを見ること。そして、互いに主を見上げ、互いに誠実に、互いを大事にして、歩めること。それが、教会と牧師の切なる願いです。

神と人とに召されたものとして、牧師としてこれからも仕えていきたいと願っています。