こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田です。4月から教会のブログを開始しました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。
さて、今日は「牧師会」について書いてみようと思います。そもそも「牧師会」というものがあること自体、あまり知られていないかもしれません。それぞれの団体によって位置付けは違うと思いますが、私たちのバプテスト教会連合では、各地区ごとに集まって交わりと祈り、また学びを共にしています。
広い、広ーい東京地区の牧師会
私は東京地区の牧師会に出席しています。コロナ以前は練馬バプテスト教会に集まっていました。同じ西武線沿線だったので集いやすいのですが、遠くは神奈川県の相模原から、千葉の松戸から、茨城の守谷からも先生たちが集っていました。東京地区と言ってもとても広いのです。
牧師会では、輪番で司会をして、その司会の先生がブックレポートや牧会上から教えられたケーススタデイなど持ち寄りで話をします。その発表がいつも刺激になっています。知らない神学者について知ることができたり、考えておかなければならない牧会上の課題などを教えていただけます。その発表の後に各教会や理事会などの報告があります。最後に2〜三人でお祈りをします。最近は10時半から始まって、お昼の12時頃までで行っています。
コロナでリアルに集まるのが難しくなった昨年度よりオンラインにすぐに切り替えました。最初こそ、年配の先生方も苦労されていましたが、今では多くの先生方が喜んでオンラインで参加されています。むしろ、これまで集なかった北海道の先生も参加できるようになり、交わりの輪が広げられています。
バプテスト教会連合の牧師会の素晴らしさと大切さ
バプテスト教会連合の素晴らしいのは、どの教会が上だとか、下だかそういうことがないことです。年齢の上でも上下関係がそんなに強くなく、若い牧師に対しても敬意が払われ、一つの教会の牧師として尊重されています。話し合いが必要な時も、みな一人一人として対等に話し合いに加わることができます。
それは「それぞれの教会のことは、それぞれの教会が決める」という原則があるからです。各教会には、他の教会や連合が干渉したりすることはありません。もちろん、互いに相談はできますが、決めるのはあくまで各教会です。裏を返すと、他の教会や団体に運営や経済の面で助けてもらうということは期待できません。そこはそれぞれの責任の領分になってきます。そういう意味で、とても大人な集団だと思います。
そのような、それぞれの教会の自主性が重視されている中で、どうして牧師の集まりである牧師会をするのかと言えば、一番は孤立化しないためだと思います。教会の中で、牧師は尊重されていることと思いますが、その職業ゆえに苦労や悩みはなかなか信徒の方に理解してもらいづらいものがあります。だから、牧師仲間が必要になります。苦しいところを通っている牧師のために、互いに祈り励まします。どの教会の牧師先生たちも苦労しています。だからこそ、互いの苦労を理解しあえます。
オンライン時代にはますますこの牧師会が大事になってくるのではないかと思います。教会でも信徒の人となかなか会えない、関われないとなると、牧師は本当に孤立してしまいます。オンライン時代ゆえの牧師の苦労はさまざまです。しかし、話をするとお互い同じような困難を辿っていることに気づかされます。そして、アドバイスし合いながら、それぞれの牧会に戻って行きます。
「神様は生きておられる!」と励まし合う
昨日もオンラインで牧師会をしました。その際には、一人の女性の牧師先生がこれまでの牧会の恵みを証してくださいました。幾多の困難がありながらも、神様が益にしてくださり、今もなお働きが続けられているお証を聞き、とても励まされました。「神様は生きておられる!」ということを改めて実感しました。今のコロナの苦難の中でも、立ち向かっておられる様子を聞かせていただけるだけで、力づけられるものがあります。
そのほか、私はいつも会うと励ましてくださる牧師先生たちが何人もいます。年配の先生方は、子どもか孫かを見るように声をかけ励ましてくださいます。同年代の牧師たちも、色々と苦労を分かち合い、また時には一緒に遊んだりして支え合います。
時に牧師であっても、「神様おられるのか」と思うような苦難に直面します。人がいつまで経っても来ない。教会がなかなか成長しない。一人だったら倒れてしまうような時に、「もう少し一緒に主に仕えてみよう」と支え励まし合うのが牧師会ではないかと思います。
それでも、牧師を辞めてしまう仲間がいることも事実です。その苦しみに寄り添いきれなかったかという思いもします。けれど、それでも互いに声をかけ、励ましていきたいと願っています。そして、互いに「神様やっぱり生きておられるね!」と励まし合いたい、そう願っています。
これからも牧師会が互いに愛し、励まし、刺激し合うところとして用いられることを祈っています。