こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田です。今年の4月から教会のブログを開始しました。聖書のお話や教会での活動や、牧師が読んでいる本や、考えていることなどの紹介をしています。

 

やっぱり顔を合わせられるのは嬉しい!

この日曜日は緊急事態宣言が明けての最初の礼拝でした。なお、感染症の危険は過ぎ去っていませんが、対策をしながら会堂で集まることを再開しました。

コロナ前は40人から50人くらいの方が会堂に集まって日曜の礼拝の時をもっていました。この日曜日はコロナ前の半分の20人くらいが会堂に集い、後の20人以上の方がオンラインで参加されました。

会堂の中も、若い人のゾーンと年配の方のゾーンを分けています。それでも、互いの顔を見えるの嬉しい限りです。ただ集まっているだけなのですが、やはりとても嬉しい。ただ会える、ただ話せる、それがどれだけ尊いのかと思わされる日々です。

この日曜のことを思う時に一つの詩篇が思い浮かびました。詩篇133篇都上りの歌です。

 

詩篇133篇 都上りの歌。ダビデによる

1,見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。

2,それは頭の上にそそがれた尊い油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。

3,それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

 

都上りというのは、年に数度の神様を礼拝する大事なお祭りのために、神殿のあるエルサレムに集まる際に、うたわれたものだと言われています。

イスラエルは12部族からなっています。普段はそれぞれの国内に散らばっていますが、この祭りの時には共に集います。それが大きな喜びであったのです。

けれども、実際イスラエル12部族が共に集まれた期間は限られていました。12部族であったイスラエル国家は2つの国家に分裂してしまいました。しかも、片方の国家は外国から攻められて滅ぼされてしまって、今はどうなっているかわからなくなっている。実際は離れ離れ、行方知れずのものたちがたくさんいたのです。

集まれる兄弟たちだけであっても、集まることは嬉しい時だったでしょう。それでも、そこにはいない兄弟がいる。集まれば集まるほど不在はよりリアルなものに感じられます。それを思うと痛みがあります。それでも、この詩篇133篇は兄弟が共に集う幸せと楽しさを歌い続けます。そこには信仰があります。それは、今は見えない兄弟を含めて神様が再び集めてくださることを信じる信仰がそこにはあります。

 

この場にはいなくても、共に歩む兄弟姉妹を覚える

オンラインの時代に必要なのは、この見えない兄弟姉妹を含めて「私たちはひとつ」であるという信仰のイマジネーションだと思わされています。

二分割で会堂に集える人々は半数かもしれないけれど、オンライン上には神の家族がいる。そして、今私たちはひとつになって礼拝しているのだという礼拝のイマジネーションです。家庭にいる方たちも、会堂と心を合わせる。家に居ながらにして自分の心は会堂に置く。その礼拝のイマジネーションです。

この具体的な場所を超えて「ひとつ集まる」という信仰によるイマジネーションをすることができるようになると、広がりが生まれます。それは、使徒信条の信仰です。

使徒信条で私たちは「聖徒の交わり」を信じる告白をします。聖徒とは、生きているものたちだけではなく、すでに召されている兄弟姉妹を含めた聖徒です。私たちは礼拝において、生きているものも召されているものも共に主を礼拝する。その礼拝のイマジネーションは、国境を超え、時代を超えて広がり続けることができます。私たちは決して一人ではありません。

何より「共にいる」とイエス様が約束してくださったことは、まさにその聖霊による臨在です。それは私たちの信仰によるイマジネーションに支えられているところが大きいものです。私たちの信仰はその原点からして、見えないものを見る信仰のイマジネーションからスタートします。

 

信仰によるイマジネーションを大事にする

イマジネーションといっても、それはただの妄想ではありません。御言葉を土台として、神様が与えてくださるヴィジョン、幻と言えるものです。神様は私たちの心のうちに、見えないものを見るようにするイマジネーションを与えられました。それが自分勝手なものにならないために聖書があり、説教があります。

このコロナ禍は私たちにとって、「見えない相手を思う」、「見えない方に思いを馳せる」という大事な信仰のチャレンジとなっています。それは、実はコロナ以前から必要とされていたものでもあります。強制的にそれを必要とされている今だからこそ、この信仰のイマジネーション、みことばに生きるイマジネーションを大事にしたいと思います。

説教の役割とは、この見えないものを見えるように語ることだと思わされています。互いに必ずまた顔と顔を合わせる時がやってくることを信じ、期待しながら、なお現在限られたものたちであっても集まれていることを喜びながら歩みたいと思わされます。