「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
いとうひろしさんの「だいじょうぶ、だいじょうぶ」という絵本をご存知でしょうか。小学校の国語の教科書にも掲載されているもので、とても心温まるおじいちゃんと孫の心の交流が描かれています。以下、絵本ナビ(https://www.ehonnavi.net/ehon/2013/だいじょうぶだいじょうぶ/)さんでの紹介です。
ぼくが今よりずっと小さかった頃、ぼくとおじいちゃんは、毎日のようにお散歩を楽しんでいました。それは、家の近くをのんびり歩くだけだけれど、冒険するような楽しさにあふれていたのです。おじいちゃんと手をつないで歩いていると、ぼくのまわりは魔法にでもかかったみたいに、どんどん広がっていくみたいで。
でも困ったことに、出会いや発見が増えるたびに、怖いことや不安も多くなっていきます。そんな時、いつもおじいちゃんはぼくの手をにぎり、おまじないのようにつぶやくのでした。
「だいじょうぶ だいじょうぶ」
この世界で生きていくのって、結構たいへん。だけど、おじいちゃんの「だいじょうぶ」は本当にすごい。その言葉には、全ての不安を包み込んでくれている様な不思議な強さがあるのです。心が落ち着いてくるのです。子どもに読んであげているうちに、その言葉の響きにいつの間にか励まされていた、という大人の方もいるのでしょうね。そして、思うのです。
「この世の中、そんなに悪いことばかりじゃないな」
作者のいとうひろしさんの言う通り、大人も子どもも、少し行き詰まったなと感じたら、こんな風にゆっくり、のんびり、歩いてみるのがいいのかもしれませんね。
(磯崎園子 絵本ナビ編集長)
私はこの絵本に出会ったのは、小学校の教員1年目の時でした。国語の最初の授業で扱ったように記憶しています。教員として、右も左もわからず、毎日悪戦苦闘している時に、国語の授業でこの作品を読めたことはとても励まされた思いがします。
この絵本の中の「ぼく」にとって、世界は未知のものだらけで、不安を抱いています。周囲の世界にはたくさんの漢字があり、読めないものばかりで、本当に大人になれるのかなと不安に思います。私はこの気持ちがとてもよくわかります。結構、大きくなってもこの感情を抱いていました。中学生の時に、図書館に行って、カッコつけて難しい本を借りてみたけれど、全く読めないし、理解できなくて、自分は本当に大人になれるのかと不安になりました。
そして、大学を卒業して教員になっても、当初はわからないことがいっぱいで、不安でした。当初、同僚の先生たちとの打ち合わせでも、何を言っているのかほとんど理解できず、それで失敗してしまうということが何度もありました。本当にやっていけるのだろうかと不安がありました。
その時に国語の授業でこの「だいじょうぶ、だいじょうぶ」を読んで、何かほっとしました。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
この言葉はとても暖かく、不安な時に安心させてくれます。そして、私は読みながら、イエス様が私にこのように語っていてくださると感じました。
マタイの福音書28章
18,イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19,それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20,また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」という言葉には、このイエス様の「いつまでもあなたと共にいるよ」という響きを感じます。色々な状況で苦しい時や不安なことがある時でも、イエス様は私と共にいてくださり、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言ってくださる。そのことが本当に慰めです。
この言葉が語られた時の弟子たちも不安がありました。イエス様は復活したとはいえ、また天に変えられて見えなくなってしまう。これから自分たちでやっていけるだろうか。そんな不安な時に、イエス様は「あなた方とともにいます」と語ってくださったのです。どれだけ、この言葉に励まされただろうかと思います。
この絵本では、最後おじいちゃんが病気になってしまい、「ぼく」が今度は「おじいちゃん、だいじょうぶだよ」という側になります。おじいちゃんのいう通り、確かにちゃんとここまで来られた。「だいじょうぶ」だった。その思いが、今度は自分が「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と語る側に回る力となりました。
大人になった今でも、私は分からないことがいっぱいです。今週は著作権のことなど、自分が知らないけれど、大事なことがあることを考えさせられました。著作権のみならず、学校では習っていないけれど、世間ではすでに決まっているたくさんのルールや常識があります。大人になっても、分からなくて不安になることがいっぱいあります。
それでも、ここまでイエス様は確かに私を離れることなく、守り導いてくださいました。だから「だいじょうぶ」と思えます。そして、そうやって守り支えられてきたものとして、不安な人にも語りたいのです。「イエス様がおられるからだいじょうぶ、だいじょうぶ」と。
何があっても、イエス様は私たちから離れることはありません。いっぱい色々なことが分からなくても、その日その日を生きていけばいい。イエス様が語ってくださることばを最後に今日の言葉として受け取りたいと思います。
マタイの福音書6章
25,だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
26,空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
…
34,だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。