こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。教会のことや、聖書のことなどを書いていますが、毎週金曜日は「牧師の本棚から」ということで、牧師が読んできて感動した本や教えられた本などをご紹介したいと思います。

5回目はタイセンの「パウロの弁護人」です。著者のタイセンという方は新約聖書学の学者として研究をされてきた方です。学者であるタイセンが自分でこれまで研究してきたパウロとその当時の周辺の世界を小説として著しているものです。

物語の設定としてはAD 61年のローマにパウロが囚人として移送されてきて、そのパウロの弁護人をエラスムスというローマの弁護士が引き受けるというものです。そこに当時ローマで起こった奴隷が主人に逆らった故に起こった大虐殺事件などが絡み合い、パウロの語るキリストについての教えと当時の哲学や思想との違いなどが語られていきます。

「パウロの弁護人」というタイトルの通りで、パウロが語ったことなどは浮かび上がってきますが、当のパウロはあまり出てきません。パウロがたくさん活躍する姿を期待していると肩透かしを喰らうかもしれませんが、当時のローマ世界の様子や、初期キリスト教の礼拝や集会の様子など「きっとこんな感じだったのだろうな」とリアルに感じる描写になっています。全てに同意できるわけではありませんが、やはりこの分野を研究し続けたかただけあり、読む価値のあるものだと思っています。

 

キリスト者は貴族主義だ!〜人を下から変える福音〜

この小説で私が最も心に残ったのは第8章「抵抗としての説教」です。ここではあのピレモン書で話題になっていた逃亡奴隷オネシモが、キリスト教指導者として集会で説教をしている様子が描かれています。

奴隷が教師になって、その語る教えに自由人や貴族が聞き入っているその様子は、いかに当時の社会にインパクトがあったかが伝わってきます。また、集会の中で聖霊に導かれた人たちが次々に語る場面も出てきて、お互いに違う信仰もまたぶつけ合います。異言で語り出す人がいて、解き明かす人もいる。コリント人への手紙で出てきた集会の様子が浮かび上がってきます。

その集会に参加した主人公である弁護人のエラスムスは、クリスチャンたちの様子を「貴族主義だ!」と言います。ここにはネガティブな意味とポジティブな意味の両方が含まれているように思います。

なぜ貴族主義なのかというと、クリスチャンが身分の高さを誇っているという点です。「神の子」とは王が自称するタイトルなのに、クリスチャンたちは奴隷でも普通の市民でも自らを同じように「神の子」と言っている。

また、やはり王たちが自分たちには特別な守護霊の力が働いていると自称するが、クリスチャンたちも「神の霊に満たされている」と語る。

そして、余分なものを持っているクリスチャンはそれを寄付に回す。「受けるよりも与える方が幸いだ」というのは、本来王など権力者のモットーなのに、クリスチャンたちは同じモットーを掲げているという。

「クリスチャンたちは金持ちや支配者の真似をしている」と、貴族であるエラスムスには映ったのです。エラスムスはクリスチャンたちのその様子に戸惑います。奴隷が奴隷として、市民は市民として、貴族は貴族として生きるという身分制度が絶対の社会にあって、クリスチャンの集会はそういった囚われから解放されている。しかも、武力によって解放されようとしているのではなく、その集会にいおいてすでに実現している。それは、旧来の支配構造の中に生きてきた人々からすれば、脅威だったことでしょう。

 

私たちは天のお父さんによって造られた神の子なのだから

私はこれこそ福音のインパクトだと改めて教えられます。福音はこの地上の身分制度を超えて、互いを兄弟姉妹にしてくれます。それだけではなく、神の子としてまさに王の子としてこの地上で生きることができる。

戦前、一人の日本人クリスチャンがアメリカに行って、ナイアガラの滝に連れて行かれて、周囲のアメリカ人から「日本人よ、お前の国にはこんなすごいものはないだろう」と言われたそうです。普通なら、「さすが、アメリカですね。日本とは違う」となりそうですが、この日本人クリスチャンは「何いってんだ。これは俺の天の父ちゃんが造ったものだ」と言い返したというのです。

このやりとりにも私は素晴らしい「貴族主義」と言えるものがあるように思います。この世界は私の天のお父さんが造られた。それはそのまま、「あなたも私も天のお父さんによって造られたじゃないか、だから兄弟姉妹だ」と発展します。

私たちは性別や出身、人種に家柄など様々なフィルターで人を見てしまいます。しかし、聖書の語る福音は、これらのフィルターを全て剥ぎ取り、裸のままの自分に戻してくれます。その裸の自分に主イエスが神の子としての衣を着せてくださいます。そして、もはやユダヤ人もギリシャ人もない。日本人もアメリカ人もない。福音は信じるすべての人を変えるまさに神の力です!教会はそのようにして、これまで交錯することのなかった人々が結び合わされるところです。パウロはまさにそのことに生きて、そのことを伝えた人です。

ローマ人への手紙1章

16,私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

17,なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

この「パウロの弁護人」を読みながら、教会がこの福音のインパクトをより取り戻したいと願います。教会が「神の子」としてこの世のあらゆるフィルターから解放された共同体として、世界を下から変えるものとなれますように!