ヨブ記19:25〜27

25,私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。

26,私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。

27,この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。

〜「なぜ、このような苦難が私を襲うのか?」という問い〜

・ヨブ記の主題は「なぜ、神は苦しみを許すのか」というものです。それはコロナに苦しむ今の世界でも重なる問いではないでしょうか。このコロナの苦しみは、誰かの罪の影響なのか。コロナの苦難にあるものは神の恵みから外れたのか。この問いは当然コロナのみならず、様々な人生で襲いかかる苦難についても起こってくるものです。

1.私たちが「苦難を」問うのではなく、「苦難が」私たちを問うている

ヨブは自身が受けている苦難について神様に問い続けます。しかし、友人たちはヨブが悪いことをしたから、苦難があるのだと責める。ヨブ記では、天において神様とサタンの駆け引きがあり、ヨブの信仰が本物かどうかを試すために許されていた苦難だと明かされているのですが、この事実は最後までヨブに明かされることはありません。

常にこのような神様とサタンのやりとりがあるのかどうかは分かりません。けれど、このヨブ記のように、どのような苦難であれ神様の支配の元にあることを私たちは知る時、見えてくる景色が変わります。そして、実は私たちが苦難の意味を問うのではなく、苦難によって「私たちが問われている」(フランクル)。この転換に気づく時、苦難についての受け止め方は変わってきます。

 

2.苦難に立ち向かわれ、苦難によって完成された私たちの贖い主を見続ける cf)ヘブル2:10

 「人間の偉大さを計る最良の尺度は苦しみに耐える能力である」と言われています。苦難などストレスがかかると、人間は退行して自己中心的になり、悪に走りやすい。イライラして人や物に当たる、それは自然なこと。何か暴力的な行動や受け入れ難い行動をしている人は、とても大きなストレスを抱えている人なのかもしれません。

けれど、そこで「仕方ないよね」で終わってはいけない。私たちの世界には大きな苦しみの中でも、それに耐えている人がいる。そして、私たちはそこに人としての偉大さを覚えます。

まさに、そのような苦しみによるストレスの極みを通られたのが主イエスだった。苦難によって問われるのは私たち人間だけではない。誰よりも苦難によって問われたのは、私たちの贖い主であるイエス様だったのです。

主イエスは私たちと同じ人間になられ、その苦しみの極みを通られた。それは十字架の肉体的な苦難だけではなく、親しいものから裏切られるという精神的な苦難でもありました。

しかし、なんと聖書(ヘブル2:10)は、主イエスは苦難にあわれたことで私たちを導く救い主として完成されたと語ります。苦難こそが、救い主として必要な物だった。苦難を通られた救い主だからこそ、私たちの弱さや苦しみに同情し、憐れんで助けてくださることができる。ヨブが望んでいた「私を贖う方」とはまさにこの主イエスだったのです。

主イエスは最大のストレス下であっても、私たちを生かすために十字架に向かってくださいました。その主イエスを仰ぎ見るときに、私たちは救いを受けます。そして、私たちもまた苦難の中にあっても自己中心的なものにならないように自ずと導かれるのです。

 

3.苦難の中で、自己中心にならず、神と人とを愛するものとなる

今のコロナの状況は私たちにとてもストレスフルです。戦争のようなものとは違うかもしれませんが、どこにでも行ける自由が制限され、人と親密な時間を過ごすことが制限されている。それはじわじわと私たちを苦しめます。みんな被災者になっている。みんなストレス下にある。

しかも、いつこれが終息するかも分からない。実際の病によるものだけではなく、先が見えない精神的なストレスは計り知れません。このような状況の中で、放っておけば私たちも退行し、愛を失い、自己中心的になり、互いに裁きあうようになってしまいます。

だからこそ、十字架のイエス様を見上げ続けます。主イエスは、私たち罪人を愛し、それゆえに受ける苦難を全うされました。その主イエスの愛を受け取り、その主イエスに倣うものとして歩む時に、私たちは自分に固執することから解放されます。そして、神を愛し、兄弟姉妹を愛するものとなります。

苦難の中でも神様の愛は変わりません。私たちは「愛されている」そのことに気づくときに、私たちもまた愛するものとなります。それは、なかなか一人で気づけるものではありません。だからこそ、教会で共に主を見上げます。会堂に集えても、集えなくてオンラインでも、私たちには互いに愛しあい、祈りあう神の家族がいます。一人が気付けなくて、倒れそうな時には、みんなで励まし支えます。一人が喜びに溢れるときには、みんなで喜びます。

苦難の中でこそ、私たちのうちにあるものが問われている。このことに、共に向き合う1年間となるように、祈ります。