2021年4月4日(日)ブログNo.4 イースタ礼拝メッセージ「恐ろしさと気まずさ、そして喜び」
マルコ16:1〜8マルコの福音書
「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
イースターはとても嬉しい時です。「イースターおめでとう!」「ハッピーイースタ!」と挨拶をします。
◯喜びよりも恐ろしさ、気まずさ
けれど、2000年前の最初のイースターの朝は喜びではなく、「恐ろしさ」が際立っていました。考えてみれば当然かもしれません。死んだと思った人がよみがえったと知らされたわけです。
しかも、イエス様と会えると言われても、それを聞いた弟子たちは素直に喜べなかったのではないでしょうか。というのも、弟子たちはみんなイエス様がユダヤ人たちに捕まる時に散り散りに逃げてしまったからです。裏切ったのはユダだけではありません。弟子たちみんなでした。
その裏切ってしまったイエス様と会う、それは恐ろしかったり、また気まずいものがあるのではないでしょうか。
◯「会う」ことの中にあるのは、「裁き」ではなく、「赦し」
しかし、落ち着いて考えるときに、また違う思いが湧いてきます。イエス様は「裏切ったやつとはもう会わない。もっと忠実なものたちで再スタートする」とは言われていない。裏切った弟子たちとイエス様はまた会うと言ってくださっている。復讐のためではありません。回復のためです。
本当に恐ろしい「裁き」とはなんでしょうか。それは断絶です。見捨てられること。親子で喧嘩をしていて、一番辛いのは怒られることではありません。交わりから切り離されることです。
イエス様はガリラヤで待っていてくださる。そこはイエス様と弟子たちの出会いの場所です。その最初の場所でイエス様はご自分を裏切った弟子たちと会ってくださる。そのために待っていてくださる。それが、「赦されている」ということではないでしょうか。すでにイエス様は弟子たちを赦してくださっている。だから、待っていてくださる。
◯「赦されている」から「悔い改める(戻る)」ことができる
ここに福音があります。福音は悔い改めたから赦されるのではなく、赦されているから悔い改めることができるのです。誰も、神様の前にふさわしい悔い改めなどできません。値しないものに対して、赦しが先に与えられている。だから、神様の元に戻ることができるのです。
イースターは私たちが一番気まずい時に訪れた喜びの日です。「私なんか相応しくない」「とても神様の前になんか出れるものではない」と思うのなら、このことを思い出してください。どんなに私たちの心が気まずさがあったとしても、イエス様は会ってくださいます。あなたをすでに赦し、戻ってくるのを待っています。そのために、この方は死に、そしてよみがえられたのです。