こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田真之介です。この4月から教会のブログを始めました。お時間のある時に見ていただけると幸いです。
水曜日は「日曜を思う歩み」というシリーズで綴っていこうと思っています。というのも、水曜日は週の半ばで、1週間の折り返し地点だからです。日曜日の礼拝が終わった時は神様の恵みを感じてスタートするのですが、月曜、火曜と過ぎていくと、だんだんその感覚が薄らいでしまわないでしょうか。
というわけで、水曜日に少し立ち止まって、「日曜を思う」時をもちませんか?私たちの教会の来週の日曜日の礼拝で読まれる聖書の言葉を紹介させていただき、日曜日への期待をもって週の後半を過ごしていただけると幸いです。
さて、来週の日曜日の礼拝では、ヨブ19:25〜26を読みます。
「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。」
ヨブは神様を恐れる正しい人で、財産も豊かで、たくさんの子供たちもいた祝福された人でした。しかし、ヨブを試練が襲い、財産や子供たちを全て失い、さらに病気になってしまいました。
そのヨブの元に3人の友人たちが来て、ヨブを慰めようとするのですが、ヨブの嘆きはとても深かった。ヨブは「なぜ自分がこんな苦しい目に遭うのか」と叫びます。しかし、友人たちは「お前が何か悪いことをしたからきっと裁きにあったのだ」と責め立てます。このヨブと友人たちのやりとりが長々と続きます。
ヨブ記は、「なぜ正しい人が苦難にあうのか」がテーマとなっています。もう少し別の言い方をするなら、「神様がおられるのなら、なぜこんな苦しみを許されるのか」ということになるでしょうか。これは古今東西出されてきた疑問ではないでしょうか。
良い人は祝福され、悪人は罰せられる。みんなそうあってほしいと願います。しかし、現実には、良い人にも苦難はあり、悪人と思われる人が栄えるということがある。私たちはこのことをどう考えたらいいのでしょうか。
礼拝では、「贖う方」であるイエス様に光を当てながら、苦難について考えようと語ろうと思いますが、今日は少し視点を変えてみたいと思います。
ヨブ記で、ヨブはたくさん嘆きます。聞いている友人がうんざりするくらい嘆きます。しかし、私はこの十分に嘆くということが時には大事なのではないかと思っています。ヨブの嘆き方が適切だったかどうかは分かりません。しかし、ヨブが「神様に向かって」嘆き続けたということが良かったのではないかと思います。
ヨブの妻は苦難にあうヨブに向かって「神を呪って死んでしまえ!」と強烈な言葉を言います。それはつまり、「神なんかいない!信じてもなんにもならない」という呪いではないでしょうか。しかし、ヨブは神なんかいないという方向に呪わない。そうではなく、神様がおられるのだから、神様に向かって「なぜ?おかしいですよ!」と叫び続ける。
叫ぶ相手がいるというのは、苦難の中でも絶望していないしるしではないでしょうか。叫ぶということは、助けてくれる可能性を信じている。受け止めてくれることにかけている。本当の絶望は、誰にも叫べない、誰からも関わられない、孤独です。
ヨブ記は決して「なぜ正しい人が苦しい目にあうのか」ということに完全な答えは出していません。しかし、それでも叫ぶ相手がいる。神様は私たちの叫びを聞いていてくださる。叫び続けた結果、最後に語らいが待っています。それは、私たちが期待するようなスッキリした答えを与えてくれるものではありません。それでも、ヨブは神様と出会えたことで開かれていきます。
十分に嘆く時、叫ぶ時があっていい。親は子どもが一人で苦しむよりも、泣き叫んでくれた方が嬉しいものです。神様もそうです。苦難の時には、顔を伏せて絶望するのではなく、神様に向かって叫びませんか。ぶつけ方が正しいか、間違っているかはありません。ただただ叫んでみてほしい、嘆いてみてほしい。神様との出会いはその先にあると信じています。