マタイの福音書15章

1,そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。

2,「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」

3,そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。

6,…あなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。

7,偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。

8,『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。

9,彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

10,イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。

11,口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」

 

冷たく、人を裁く「言い伝え」

エルサレムから来たパリサイ人たちは、弟子たちが手を洗い清めるという宗教的習慣を守っていないことを指摘しました。つまり、弟子とその師であるイエス様のことを宗教的に穢れている、不浄であるとしているのです。

「こんな基本的なことも守られないのか?」

何かこう言っているように聞こえてきます。そして、自分たちは基本ばかりかもっと上級のことまで守っている優れた霊的存在であるという自負が見え隠れします。今の言葉で言うところのマウントを取ってきています。

「こんな基本的なこともできていないの?」

これは現代の信仰者たちの間でも聞こえてこないでしょうか。知的な方面では「こんな基礎の神学も知らないの?」と言うものだったり、体験的な方面では「断食祈祷もやったことないの?」と言うものだったりするかもしれません。そのようにして、互いにマウントを取り合うようなことが信仰のことでも行われることがあります。パリサイ人が特殊なのではありません。いつでもこう言うことは起こるのです。

「こんなことも知らないの?こんなこともやっていないの?」

こういった上からの声は、冷たく、人を隔て、裁くものがあります。イエス様はこう言った言葉をどう受けとめられたのでしょうか。

 

暖かく、人を養う「神のことば」

イエス様はそもそも「言い伝え」は人の教えであり権威がないことを示します。そして、彼らの問いかけが「口先だけの敬虔」であることを喝破されます。このような上から目線のパリサイ派に対して「盲人の手引きをする盲人」とたとえ、権威を認める必要がないことを教えられました。

そして、「口から出るものは心から出てくる」と言う大事なことを語られました。パリサイ派の人々の心にあったのは特権意識であり、人を見下す態度でした。それは結果として人を汚すものとなりました。

では、イエス様の心にあるものは何か。それは「憐れみ」でした。

 

マタイの福音書14章

14,イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。

 

「深く憐れむ」と言う言葉は元の言葉は「内蔵」と言う意味から来ています。そして、それは人々を癒す形で溢れ出しました。イエス様の心にあるものはあたたかい。そして、それは人を包み込み癒すものでした。

 

ただ、イエス様に憐れんでいただけばいい

では、私たちはどのように信仰生活を送ればいいのでしょうか。パリサイ派のような何かを守り行うことでないとすれば、どうしたら私たちは汚れから守られ清くあることができるでしょうか。

大事なことは、私には自分を清めることなどできないと言うことを認めることです。そうではなく、イエス様が私を聖めてくださるのです。

聖めというのは、神様がご自分のものとして取り分けてくださることです。イエス様が聖なるものとしてくださる。ただ、それにすがっていくだけです。私がそれに値するようなものであるとか、ないとかそういうことではありません。大事なのは、値しないものが聖なるものとされると言うことです。それが次のカナン人の女性の信仰に現れています。

 

27,しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」

28,そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

 

この女性は自らをパンを正当に受け取れるこどもとしてではなく、本来なら受け取れない子犬として認めて、それでもパンくずだけでもいただきたいと願いました。その信仰の姿にイエス様が動かされました。

値しないものが、ふさわしくないままでもイエス様の前に進み出る。そして、イエス様に聖なるものとしていただく。そこから全ては始まります。

大丈夫、イエス様は求めるものに答えてくださいます。イエス様のうちにあるのは冷たさではなく、あたたかさです。