ヨハネの手紙 第一1章

1,初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、

2,--このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。--

3,私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

4,私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

5,神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

6,もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。

7,しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

 

聖餐式は、「今、イエス様と一つ」という交わり

今年始めて良かったこととして、オンラインを含む聖餐式を再開したことがあげられます。コロナ禍でパンとぶどう液を用いた聖餐式をしばらくお休みしていましたが、今年になっていのちのことば社の聖餐式キットを用いることで、自宅からオンラインで礼拝される方も、会堂で礼拝される方も一緒に同じものを用いて聖餐式を行うことにしました。

私たちの信仰では、聖餐式はイエス様の十字架を思い起こす「記念」であり、パンとぶどう液はイエス様のからだと血との「象徴」であると理解するので、なくても行うことができます。その意味するところも変わりません。けれども、やはり実際にパンとぶどう液があるのはいいと感じます。

それは「今、イエス様と一つ」であることを体感できるからです。イエス様の十字架には、「あなたの罪は赦された」という過去の罪の赦し、「もう裁きを恐れる必要はない」という将来への約束のメッセージがあります。しかし、過去と未来だけではなく、「あなたがたと共にいます」という「今、イエス様と一つ」という現在への力強いメッセージがあります。パンとぶどう液を食することで「今、イエス様と一つ」ということをからだで覚えます。

 

神の光が、今私たちのうちにある

ヨハネの手紙は私たちの交わりとは、「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」と語ります。礼拝は父なる神様、御子イエス様との交わりです。聖餐式はそのことを味わう時です。

そして、この神のうちには暗いところがない光だと語ります。イエス様も「わたしは世の光です。」(ヨハネ8:12)と語られています。すると、聖餐式でイエス様と一つになった私たちには、このイエス様の光があるということです。

私たち自身で自分のうちに光があるとはなかなか思えないかもしれません。しかし、確かに聖書はこのことを約束してくださっています。だから、闇の中でも私たちは道を見失うことがありません。

そして、聖餐式には共に与る教会の兄弟姉妹がいます。みんなイエス様の光をいただいている。そう考えると、教会には光が溢れていることに気づきます。実際、私は教会の方々とお話をしているときに、イエス様の光を感じます。ご本人は気づいていないかもしれないけれど、その語ることばや振る舞いからイエス様の光を感じ、励まされています。

 

光あるところはあたたかい

日光浴が体に良いように、光には体を温め、免疫力を高めてくれる働きがあります。同じように、神の光はとても温かく、私たちに力を与えてくれます。イエス様の光をいただいく兄弟姉妹の集まる教会は温かいところです。互いに罪を赦される程に神様に愛されたものたち同士です。その愛された愛が溢れます。

もちろん、時に悲しみや怒りが拭えない時もあります。しかし、その悲しみや怒りでさえ、イエス様の光の集まるところで共に悲しみ、共に怒ることで温かいものを感じることがあります。葬儀のときに一緒に泣いてくれる人がいる。不正義が行われるときに一緒に怒ってくれる人がいる。イエス様と一緒に泣き、一緒に怒ってくれる。それだけで癒されるものがあります。

「自分なんかとても光れていない」と思わないでください。イエス様が命がけで愛してくださり、あなたと共にいてくださる。自分で光を感じないときにも、光はあります。そして、自分のうちに感じられないときにこそ、教会に来てみて欲しいと思います。教会にある光は、世間のキラキラした光ではないかもしれませんが、柔らかく、温かい、包み込む光が確かにあります。その光のうちにイエス様がおられます。