「イスラエルの神」のもとに身を寄せた人たち
マタイの福音書15章
29,それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。
30,すると大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。
31,それで群衆は、口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そして彼らはイスラエルの神をあがめた。
いつものイエス様の癒しの奇跡のまとめ記事のように見えます。しかし、ここの最後のところ、「彼らはイスラエルの神をあがめた」にポイントがあります。つまり、ここで癒されている人たちはイスラエル人ではない異教徒であるということです。
イエス様は直前のカナンの女性とのやり取りの中で語られていました。
24,しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。
それなのに、今イエス様は「イスラエルの家」以外の人々を癒している。それはなぜか。あのカナン人の女性の信仰によって、イエス様が一時的にせよ、本来の使命を変化させ、異邦人への宣教を先取りしてくださったのです。
27,しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
28,そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
イエス様は異邦人の女性の中に真の信仰を発見され、喜んで変わってくださいました。そしてカナンの女性の願いへの応えが例外ではなかったことが、ここで明らかになりました。イエス様のもとに集う異邦人たちは癒され、結果として「イスラエルの神をあがめる」という礼拝になりました。
「イスラエルの家の子ども」と同じパンが与えられた
32,イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」
33,そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう。」
34,すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
35,すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。
36,それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。
37,人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった。
38,食べた者は、女と子どもを除いて、男四千人であった。
39,それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。
このパンの奇跡は14:15〜21の五千人の給食のただの繰り返しではありません。これも直前のところからの連続です。つまり、「イスラエルの神をあがめた」異邦人たちのところで起こった奇跡だということに意味があります。
パンの奇跡は本来、荒野のマナの奇跡と重ねられイエス様が「モーセのような預言者」であるというイスラエルの家にとって意味のあるしるしでした。それはまさに「子どもたちのパン」(15:26)でした。にも関わらず、ここでイエス様が異邦人にも「子どもと同じパン」を与えられている。そこにメッセージがあります。
つまり、異邦人もまたイスラエルと同じ恵みに与る存在だということです。イエス様はカナンの女性が求めた「パンくず」以上のもの、選民イスラエルの家の子どもと同じ恵みを与えれた。つまり、異邦人もまた子として扱われている。この恵みはユダヤ人と異邦人の違いを問わず、全て身を寄せる人に与えられる。「私は〜だからもらえない」という人は誰もいません。
〜私たちの無力さが、イエス様の憐れみを発動させる〜
ここの癒された人々、パンをいただいた人々は何か賞賛されるような信仰を発揮したわけではありません。ただ助けて欲しかった病んでいた人であり、イエス様のそばで黙って腹を空かせていたいた人たちでした。
言うなれば、彼らはただの無力な人たちでした。しかし、彼らの無力さこそが「私は憐れむ」とイエス様に言わせ、奇跡を引き起こしたのです。カナンの女性のような機知に富んだ反論ができたわけでもありません。ただ黙ってイエス様のもとに三日間いた人たちでした。その無力なものたちが大きな栄光を見ました。
ここに信仰の秘訣があるように感じます。それは、イエス様を動かすことの一つは「無力さ」だということです。パリサイ派のような学歴がない、サドカイ派のような家柄もない、イスラエルの民のような民族的特権もない、健康な体もない、そのものたちがただイエス様のもとにいたときに栄光を見ました。
これは法則でもなんでもありません。しかし、教会で時に起こる神様の奇跡と思われるような感動は、無力な時にもたらされる。そのように私は体験してきました。信仰の強い人の熱心さで何かが動くこともあるかもしれません。それは素晴らしいことです。けれど、無力なものが、無力なときに栄光を見ると、ただ神様の素晴らしさが際立ちます。ただ賛美が湧いてきます。
だからこそ、無力でいい。無力なら無力なままイエス様のもとにとどまりたい。そのときに表されるイエス様の憐れみにただすがりたいと願わされます。私の、あなたの無力さこそがイエス様を動かすのだと信じます。