マタイの福音書16章

1,パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。

2,しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる』と言うし、

3,朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。

4,悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。

 

「時のしるし」はすでに与えられている、それが見えないか?

これまでのところでイエス様は五千人の給食に湖の上を歩かれたり、異邦人の土地でも病人を癒したり四千人の給食をされたりと、私たちからすると十分しるしは与えられていると感じます。しかし、パリサイ派とサドカイ派の人々は、なお「天からのしるし」を要求します。これは、「イエスをためそうとして」言っている言葉です。つまり、「そんなの俺はしるしとして認めない、我々が納得するような『しるし』をやってみよ」という要求です。

イエス様の答えは、空模様を明日の天気のしるしとして天気予報ができるのなら、すでに与えられている「時のしるし」からイエス様がどのような方かが見えるはずということです。

そう、すでに「しるし」は十分に与えられていました。けれど与えられたしるしで満足せず、彼らは「自分が満足するしるし」を求めていたのです。こういう人はどんな「しるし」を見ても、「インチキだ!心理的なものだ!」と考えます。こういう人には何も与えられないというのです。

 

自分が満足する「しるし」を欲するというパン種に気をつけよ

5,弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。

6,イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」

7,すると、彼らは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、議論を始めた。

8,イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。

9,まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。

10,また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。

11,わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」

12,彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。

 

その後、イエス様と弟子たちの間で「パン種」を巡る対話がされます。弟子たちは「物質としてのパン」がないことに心を囚われています。しかし、イエス様は「霊的なパン種」が入り込まないようにと注意を与えます。しかし、弟子たちはこれを理解できません。弟子たちは「目に見える『食べるもの』が今ない」ことが問題だと感じています。

そこでイエス様は2度のパンの奇跡を思い起こさせます。それは物質的なパンの奇跡として想起するではなく、パンの奇跡のうちに表された「イエス様は誰か」という「しるし」のことです。奇跡はただのショーではありません。イエス様の活動の中には霊的な意味合いがあることを読み取るように示唆されているのです。

パリサイ派とサドカイ派が教えとして問題があるというより、この直前のやりとりのように、神様の与えられたしるしに満足せず、自分の満足するしるしを要求することをパン種と教えられているのです。

 

〜イエス様のパン種を「しるし」として膨らませる〜

クリスチャンはすでにイエス様がメシアであることを信じている人々なのでメシアとしての「しるし」を求めようとはしないかもしれません。しかし、時にイエス様を信じない人々に対してギャフンと言われるような「しるし」をして欲しいと思わないでしょうか。

「神がいるなら見せてみろ」「教会だって問題があるじゃないか」、このように言われると、見返したくなります。しかし、こういうことに対してイエス様は相手がギャフンというような「しるし」は与えてくださりません。そして、私たちに与えられている「しるし」はというと、聖餐式のパンとぶどう汁だけです。

この聖餐式のしるしは「無力」です。それは、イエス様が十字架で裂かれた「からだ」と流された「血」のしるしであり、イエス様が無力になられた象徴でもあります。

一体、この「しるし」にどんな力があるのでしょうか。人々からはバカにされるような「しるし」かもしれません。けれども、このイエス様のしるしは信じるものたちのうちで、まさにパン種のように膨らみました(マタイ13:33)。

この「しるし」の中に、私の罪の赦しがあり、私と共にいてくださる現実があり、死は終わりではないという「いのち」が見えるものたちのうちで膨らむのです。そして、この無力に見える「しるし」が世界中に広がっていったのです。世界中どこででもこのイエス様の無力なパンのしるしの中にいのちが見出されました。他のギャフンと言わせるような「しるし」にではなく、この無力なパンの中に。

私たちの願いは「この与えられたしるしが見えるようにしてください」というものではないでしょうか。そして、この祈りを主は聞いてくださいます。私たちの望む「しるし」ではなくても、与えられたしるしが見えるようになる、これが起こるのです。

弟子たちもすぐには見えませんでしたが、見えるようになる時がありました。共に見えるようになるために、祈り続けたいと願います。