マタイの福音書16章
13,さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
14,彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
15,イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16,シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
17,するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
18,ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
19,わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
20,そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。
〜日光のようなピリポ・カイザリアにて〜
ここはペテロがイエス様を「生ける神の子キリスト」と告白するとても大事な場面です。福音書を半分に分けるのなら、ここが前半のクライマックスで、ここから後半に入っていくようなところです。
そんな大事な信仰告白をした場所がピリポ・カイザリアというところです。ここは、ちょっと考えると意外な場所です。というのも、ここはヘルモン山の麓にある標高の高い風光明媚な場所のようですが、ギリシャのパンの神の聖所があった場所であり、イエス様の時代にはローマ皇帝を崇拝するための神殿が建てられていたようなところです。風光明媚で偶像礼拝と為政者を祀ると考えると日光のような場所かもしれません。
なぜ、そんな場所に行かれたのか。それはおそらく、周りの人々に邪魔されずにイエス様が弟子たちを教えられるためだったと思われます。イエス様と弟子たちはガリラヤにいると人々がすぐに集まったり、パリサイ派などから論争を持ちかけられたりと落ち着けなかったのでしょう。イエス様からすれば偶像礼拝の場所だとかそういうことは関係ありません。弟子たちと静かに過ごせればそれで良いのです。むしろそのような偶像の場所でこそ、真の神様はどのような方かを示されたかったのかもしれません。
1.「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白
イエス様はここで弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」と尋ねられました。これはただ人の評判を気にしているわけではありません。イエス様のここまでの活動はつまるところ、「イエスとは誰か」ということに集中していました。多くの奇跡がなされ、たくさんの教えが語られた中で、人々はイエス様がどのような方と考えていたのでしょうか。
多くの人々にとってイエス様はバプテスマのヨハネやエリヤ、エレミヤではないかと思われていました。それは「メシア(キリスト)の道備え」をする人々であり、メシア(キリスト)本人だとは理解されていなかったようです。
だからこそ、ペテロの「あなたこそメシア(キリスト)!」という告白は正しくイエス様が誰なのかを表していました。弟子たちは薄々「ひょっとして…」と気づいてはいたでしょう。パンの奇跡(14:13〜)や水上歩行(14:22〜)の奇跡を通してだいぶ固まってきたでしょうが、イエス様は奇跡から少し時間を経て冷静な状況でこの信仰告白に導かれたのです。
信仰告白は危機的な状況で追い詰められ「あなたこそキリスト!」となされることもあるかもしれませんが、イエス様が望んでおられるのは、もっと冷静な状況での信仰告白です。十分にイエス様がどのような方かを見聞きして、自由な心でなされるものです。
2.「明らかにしたのは人間ではなく、天の父」という信仰告白の二重性
イエス様はこの告白を喜ばれ、「あなたは幸いだ」とペテロに語られました。「幸いだ」と言われているということはこの告白が「当然だ」ではないということです。
また「ペテロ、よくわかったな!」とペテロ個人を喜んでいるだけでもありません。この告白ができるようになったのは、ペテロの力だけではなく、明らかにされた天の父のおかげです。
信仰告白は誰もが十分に見たり聞いたりすればたどり着くというものではありません。見ても聞いても信じない人々は大勢います。信仰告白は、人間がするものですが、神様が告白できるように導いてくださっているのです。
しかもこの告白が、当時の知的に高い人々から始まったのではなく、無学と思われていた漁師や取税人からはじまったのです。パウロは教会に知者が少なくこの世の弱いものが多いと語っています(Ⅰコリ1:26~)。
信仰告白は私がするものですが、明らかにしてくださっている神様がおられる。ただ告白できるように導かれたことを感謝したいと思わされます。
3.「ハデスの門も打ち勝てない」信仰告白に基づく教会
そして、イエス様は弟子たちの信仰告白に基づき、「この岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言されました。この教会こそ、民族や血縁による宗教ではなく、信仰告白に基づいたイエス様を救い主と信じる新しい共同体です。人間の信仰告白に基づきますが、当時にその信仰の道に至るには父なる神の招きがあった。招かれ集まったものたちが教会なのです。
その教会には天の御国の鍵が託されていると言われます。それは人をこの共同体に迎え入れる鍵です。「あなたの罪は赦された」という宣言を教会が確信をもってできるのはこのためです。そして教会は死に打ち勝つ共同体です。教会は死の先の永遠のいのちを信じるものたちの集いです。ですから滅びを恐れない力強さがあります。
教会は外からはそんなに強い集まりに見えないかもしれません。むしろ、弱いものたちの集まりのように見ている人々も多いでしょう。けれど、教会には大きな役割が与えられています。人が死を恐れずに、本当にいのちに生きられる、その約束と宣言をイエス様から託されています。だから、教会は今でも大胆にイエス様の救いを語ることができます。
〜「あなた方」「私たち」という信仰共同体に身を置いて〜
今日のところで、イエス様は「あなた」ではなく「あなた『がた』は誰だというか」と弟子たち全員に問われています。これに答えたのはペテロ個人でしたが、それは同時に弟子たち全員の告白でもあったでしょう。ペテロの告白に頷いたり、「アーメン」と言う形でその告白に連なっていたのではないかと思います。
教会での信仰告白はこのようなものだと思わされます。信仰は「私は〜信じます」と個人で告白するものですが、そこにはたくさんの兄弟姉妹がいる。礼拝の中で使徒信条を告白するときにそのことを感じます。使徒信条は「我は〜信ず」という告白を、みんなで行います。それは「私たち」の告白となっています。
ペテロのように自分の言葉で力強く告白する人もいれば、他の弟子のようにその告白に同意する人もいます。どちらが偉いということではありません。大事なのはその信じる群れに私も置いていただいたということです。そして、その告白に連なるように導いてくださった神様がおられる。それを共に喜びたいと思います。信仰は与えられ応えるもの。誇らず、ただ感謝するものでありたいと願います。