テモテへの手紙 第二1章

6,それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。

7,神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

8,ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

 

あの人みたいにはなれない〜臆病風に吹かれる時がある

テモテはパウロが特に目にかけていた弟子でした。テモテの母や祖母も信仰に導かれいて、本人も素直に神様に召されたことを喜び、パウロに付き従っていました。たくさんの苦難をパウロと共にしました。しかし、そんなテモテでしたが、悩みも多かったようです。

パウロに比べればテモテは正規のユダヤ教の教育を受けたわけではなかったと思われます。また、十二弟子のように直接イエス様にお会いしたわけでもない。パウロのように打たれるような出来事があったわけでもありません。まだ、若くパウロ不在の教会を任されても軽く見られ、悩んでいたようです。

この第二テモテを読んでいると、かなりテモテが苦しんでいたのではないかと想像します。自分はパウロ先生のようにはなれない。英雄のようなパウロに比べ、「投獄されることも厭わじ」とはなれない。またパウロのように後世に残るような言葉も残せない。教会の運営に疲れ、迫害を恐れ、自分の不甲斐なさに苦しんでいたのではないかと思ってしまいます。

教会にはパウロのような開拓期のエネルギーあふれる世代がいます。しかし、教会はそこから次のテモテのようにそれを受け継ぐ世代へと移ります。「私は開拓の時の先生(信徒)のようにはなれない…」これは多くの教会で抱える「テモテ世代」の共通の悩みではないかと思います。

 

あの人みたいでなくていい〜力と愛と慎みの霊で生きる

しかし、パウロがテモテに求め、祈っているのは、「パウロがテモテになること」ではなく、テモテが「あなたに委ねられた良いものを聖霊によって守ること」(1:14)でした。言い換えるならば、それは「テモテがテモテとして召されたように生きる」と言うことではないでしょうか。

神様がパウロを選んだのと同じように、テモテを選んでくださった。その選びは神様の恵みです。その選びの恵みに生きることが「召されたように生きる」と言うことです。テモテはパウロにならなくていい。テモテはテモテとして生きればいいのです。

私たちをそのように招き選び導いてくださるのが聖霊なる神様です。この聖霊は「力と愛と慎みの霊」です。ただの力ではなく、愛がある。それは力を自分のために用いるのではなく他の人を救う愛のために用いる力です。そして、自分を誇示するようなことをせず慎み深さへと導きます。

 

求められているのは業績ではなく、共に苦しむこと

パウロはテモテに業績を上げろと圧迫はしていません。パウロが求めているのは、「福音のために私と苦しみを共にしてください」と言うことでした。業績を上げて共に喜ぶのは簡単です。けれど、投獄されたパウロと共に苦しむのは辛いものがあります。

共に苦しむことには愛が含まれます。見捨てないこと、無関心にならないこと、それは愛です。何かを達成するために動き回ることよりも、ずっと地味なことです。けれど、苦しむものと共に苦しむことこそ、イエス様が私たちに示してくださった道です。

テモテ世代に求められていることとはなんだろうとよく考えます。教会の草創期を経て、次の世代に移るときに求められていることです。それは、この「共に苦しむこと」ではないかと思わされます。次の世代に移るのは色々と不安定な時期でもあります。その不安定な時期を共に苦しむ。それは愛がなくてはできません。しかし、その共に苦しむ人がいることで、福音は次の世代へと届けられていきました。

テモテは何かを成し遂げた人ではないかもしれません。何かを書き残したり、有名な教会を建てたわけではないかもしれません。けれど、テモテがパウロと共に悩みつつも苦しんだこと、それが残りました。何よりも主のうちにそれは覚えられています。それで十分ではないでしょうか。

何か業績を上げたい、生きた証を残したい、それも立派なことです。そのように召される人もいるでしょう。けれど、誰かの後を継ぎ、さらに次の世代につなぐ人もまた大切です。「創業守成いずくんぞ難きや」と言う言葉があります。何かを始めることも難しいけれど、それを守り続けていくことも同じくらい難しいと言うことです。

信仰を次の世代につなぐ役目に召されているのなら、それに撤したい。召されたように生きるものでありたいと願わされます。それがたとい地味なものであっても、ただ召されて与えられた期間、その役割を果たすことができるのなら、それで十分です。何に召されているのか、何を共に苦しんでいるのか、そのことを覚え祈り歩みたいと思わされます。