マタイの福音書16章
20,そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。
21,その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
〜キリストは「苦しみを受ける」「殺される」「よみがえる」ことが定められている〜
イエス様はペテロの信仰告白を受けた「その時から」(21)、次のステージに入られました。それは、イエス様がメシア(キリスト)であるとはどういうことかを明らかにされていくステージです。
しかし、それは人々が期待していたメシアの姿とは異なっていました。人々が期待していた「ローマからの解放」「ユダヤ人による神の国建設」とは全くつながらないように思えることでした。
しかも、ユダヤの最高議会のメンバーである「長老、祭司長、律法学者たち」が、ユダヤ人の意思としてメシアを苦しめ、殺すというのです。それは「そんなこと起こるはずがない」と思われることばかりだったのです。
〜「神の御子であるあなたが苦しむ必要なんてない」というサタンのささやき〜
22,するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
23,しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
ですから、ペテロが「そんなこと起こるはずがない」と思ったのは当然だったかもしれません。けれど、結果としてイエス様から「下がれ、サタン」と厳しく責められてしまいました。
なぜイエス様はここまで厳しくペテロを責められたのでしょうか。大事なのは「下がれ、ペテロ」ではなく、「下がれ、サタン」であるということです。イエス様はこのペテロの言葉と振る舞いの中にご自分を躓かせようとするサタンを見られたのです。
それはマタイ4章の荒野でイエス様を誘惑したサタンです。サタンは「私にひれ伏すなら世界をあげよう」と誘惑しました。
マタイの福音書4章
8,今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
9,言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
10,イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
それは「神の御子であるあなたが苦しむ必要ない」という誘惑でした。「あなたの国をもたらすのに、十字架なんて必要ありません。私を拝めば全部あげますから」。サタンは十字架からイエス様を遠ざけようとするのです。ペテロの言葉もそれと同じだった。ペテロはイエス様に「メシアであるあなたに十字架なんてふさわしくない」と声をかけていたのです。
〜「受難から栄光」という「救いの方物線」計画〜
24,それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
25,いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
26,人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
27,人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。
28,まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」
イエス様はこの「十字架抜きの栄光」を退けられます。そして、弟子たちに「十字架の先のいのち」の道を教えられる。イエス様の道は自分を栄えさせるための自己中心の道ではありません。そうではなく、自分の栄光、自分への執着を捨てていく道です。しかし、その自分を捨てた先にこそ、まことの「いのち」が待っていると言われるのです。
大事なことは、これはイエス様が自分で考えついた良いと思う道ではなく、「父なる神の救いの計画」であるということです。父なる神様は人間を救うためには「御子の受難によるのが良い」(ヘブル2:2)と考えられたのです。
それは高いところにいた御子が、徹底的に低く降り、最後は死にまで到達された先に、復活により引き上げられるという「救いの放物線」を描く道でした。弟子たちもこの放物線をたどる時にこそ栄光を受けるというのです。
〜イエス様と一緒に降っていった先に引き上げられる〜
この救いの計画はすんなりとわかるものではありません。実際、弟子たちはすぐにことはわかりません。しかし、まさにこれからイエス様はこのことを弟子たちに教えていこうとされています。本当に救いはイエス様の苦しみの先に待っているのだと。
ペテロと同じように私たちも「苦しむ」ことが先に待っていてほしいとは思いません。しかし、教会が模範とするのは、このイエス様の「救いの放物線」の歩みです。それは私たちが好む「右肩上がりの成長」ではありません。むしろ時に降っていく歩みです。
実際、教会の歴史は様々な苦難の歴史でした。迫害があり殉教のある歴史でした。けれど、教会は喜んでその道を歩みました。なぜでしょうか。それは、私たちが一人で降るのではなく、イエス様が先に降ってくださった道だからです。そして、この地上での苦難はいつまでも苦しむのではありません。十字架ののちに復活があったように、苦難の先には引き上げられる時がやってくることを信じられるのです。イエス様の受難が復活につながるように、教会の受難も栄光へとつながる、それが希望なのです。
本当にこの救いの放物線が腑に落ちると、私たちの人生は変わります。なぜなら、苦難にあっても、それをおかしなことと考えるのではなく、イエス様に従う当然の道だと受け止められるからです。むしろ、十字架に救いの意味があったように、苦難の中に意味を見出し、引き上げられる希望をいただけます。喜びの時には喜び、苦難の時にも先に希望を失わずに済む。それが救いの放物線に生きる道です。
すぐに理解できなくても構いません。弟子たちと一緒にイエス様の姿を見ていきましょう。イエス様が語られた意味はどういうことなのか、生涯かけて探っていきましょう。それは、救いに至る道です。