マタイの福音書17章
1,それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
2,そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
3,しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
4,すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
5,彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。
6,弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
7,すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。
8,それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。
1.「サタン」呼ばわりされたペテロへの主イエスの限りない寄り添い
ここの場面は「山上の変貌」と呼ばれるイエス様の生涯の中でも、とても印象深い場面です。私たちと同じただの人間にしか見えなかったイエス様が、栄光の姿に変わられる。しかも、モーセとエリヤという旧約聖書を代表する人物たちが現れて、この場面を盛り上げているように見えます。
しかし、この栄光の場面は文脈から切り離されて読んではなりません。まず覚えておきたい文脈は、この場面の直前でペテロが「下がれ、サタン!」(16:23)と厳しく責められていたということです。
その少し前でペテロはイエス様のことを「あなたは生ける神の御子キリストです!」(同16)と素晴らしい信仰告白をしていました。しかし、ペテロはイエス様が直後に語られた「受難の予告」を理解しようとせず、「そんなことイエス様、あなたに起こるはずありませんよ」と言ってしまう。その言葉に対して、イエス様は「下がれ、サタン!」と言われたのでした。
まるで「天国と地獄」をわずか数分の中で行き来したように見えます。しかし、人間はほめられた記憶よりも叱られた記憶の方が残るのではないでしょうか。きっとペテロは打ちひしがれていたのではないかと思います。そのペテロと、ヤコブとヨハネ兄弟を連れて主イエスは山上で姿を変えられ栄光の姿を見せてくださったのです。
ここにあるのは、主イエスのペテロへの変わらない愛です。ペテロは失敗しました。イエス様のことを理解しておらず恥ずかしい大失敗をしました。しかし、それで「はい、落第」とはならなかったのです。イエス様はペテロの信仰告白を喜ばれたこと、そして彼の信仰告白に基づく「御国の鍵」という約束を変えてはおられない。主イエスは一度の失敗で見捨てられるようなお方ではありません。そして、失敗したものを励まし、立ち上がる道をも備えていてくださいます。
2.幕屋発言に見られる「まだ分かっていない」ペテロ
けれど、この栄光の姿を見てもペテロの信仰理解は深まってはいません。ペテロは言います。「なんて素晴らしい!ここに三つ幕屋を作ります!」(17:4)この発言は何を言ったらいいか分からなかった言葉かもしれません。けれど、そこに本音があるように見えます。ペテロの本音とは、「幕屋を作る」というところに現れています。つまり、このイエス様の栄光の姿をいつでもここで見られるように「固定したい」という思いです。きっと思ったのでしょう。「そうだよ、イエス様!これだよ!栄光の姿こそあなたにふさわしい!」しかし、それはイエス様がこの姿を見せた目的とは違います。
3.主イエスと父なる神が「分かってほしい」こととは…
では、イエス様がこの山上の変貌でペテロと弟子たちに伝えたかったことはなんでしょうか。それは、雲の中から聞こえたイエス様の父なる神様の声に答えがあります。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼のいうことを聞きなさい。」
特に最後の「彼のいうことを聞きなさい」こそ大事です。そして、聞くべきイエス様の言葉とはなんでしょうか。それこそ直前に語られた「キリストは苦しみにあい、殺され、よみがえる」という言葉です。この受難と復活の御子こそ、「わたしの愛する子」であり、受難と復活を「わたしは喜ぶ」と言われているのだ。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
この言葉は、イエス様の公生涯に入る時にも天から聞こえました。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた場面です。
マタイの福音書3章
13,さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
14,しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
15,ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
16,こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
17,また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたことも難解な出来事でした。「なぜ、罪なき方がまるで罪人のように洗礼を受けられるのか」バプテスマのヨハネもわかりませんでした。しかし、イエス様はそれを「正しいこと」と言われます。そして、天から父なる神が「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と宣言される。
イエス様の洗礼、そしてイエス様の受難、この二つはどちらも難解です。「なぜ神の子が洗礼?」「なぜキリストが十字架?」しかし、この私たちには理解し難いことの中に、大事な神様からのメッセージがあるのです。
イエス様と父なる神様はこのことを「分かってほしい」のです。キリストが民に拒絶され殺されるのは、失敗ではない。実はここに登場したモーセとエリヤも民に拒絶された人たちでした。しかし、拒絶されたように見えても、そこに神様の御心がある。それは人間の拒絶の先に、人間のための救いの計画があるのです。
すぐにペテロたちにはこのことが分からなかったでしょう。けれど、いつか分かる。その時のためにこの栄光があるのです。
〜十字架の神の愛を信じるための栄光の姿〜
山上の変貌と十字架は対照的に見えるかもしれません。それはまるで栄光と挫折という対照的なもののように見えます。しかし、人を救いに導くのはこの挫折に見える十字架です。そして、父なる神はこの十字架を見るように導かれている。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」
十字架にかかり死んで葬られるこの人こそ、神様が愛する子であり、この受難を父なる神様は喜んでおられる。十字架を喜ぶというのは、決してサディスティックなものではありません。そこには、独り子を十字架につけるまでに人を救おうとする神の愛があります。父なる神様が喜んでいるのは、父なる神の願いである「人を救う」ために自らの命を差し出すことを深い痛みと共に喜んでおられる愛です。
十字架は挫折の象徴ではありません。そして山上の変貌というイエス様の栄光は、十字架に現れる神の愛を知るためのものです。
ここから福音書は十字架へと向かう道に入ります。それは、山の頂上から降っていくような受難の道です。しかし、降ることは失敗ではありません。受難の先に栄光が待っています。受難に意味があります。救いの放物線は栄光から受難へ、そして受難から栄光へと向かいます。