おはようございます。清瀬バプテスト教会の牧師の松田です。4月から教会のブログを開始しました。今日は日曜日です。感染者数が増えていて、難しい時期ですが、会堂においても、それぞれの場所にあっても、神様を礼拝し、平安と希望をいただけますように。
今日の礼拝で読まれる聖書とそのお話についてシェアいたします。
マタイ13:24〜43(1)※ここの箇所をこれから3回にわけてお話しします。
24,イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
25,ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
26,麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。
27,それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
28,主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
29,だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
30,だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
1.「え、抜けばいいじゃん?」と言わない主人
このたとえ話を読んでいると、「分かりそうで、分からない」というモヤモヤしたものがあります。というのも、畑に毒麦が生えているのなら、抜けばいいじゃないと思うからです。いくら最後に抜くからと言っても、わかっているものだけでも抜いた方が畑のためじゃないのと思います。
ここで大事なのは、この「違和感」です。というの、このたとえ話は決して、農業の仕方について教えているものではありません。むしろ、「?」となることで伝えたいことがあるわけです。
そして、このたとえ話には「解き明かし」が後で語られます。
36,それから、イエスは群衆と別れて家に入られた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
37,イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
38,畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
39,毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
40,ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
41,人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、
42,火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
43,そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。
簡単にまとめると、世界にはイエス様のことを信じる「良い麦」もいるけれど、悪魔が蒔いた「毒麦」もある。つまり、イエス様を信じる人もいるけれど、信じないで悪さをする人もいる。けれど、最後にこの世界が終わるときには、毒麦のような悪いものたちは滅ぼされますよということです。
2.「成長」する天の御国という視点を理解する
この毒麦のたとえとその解説はしばしば誤解されています。というのも、教会の中にも毒麦がいて、「私が毒麦かも?」と心配したり、「あいつは毒麦だ!」と誰かを攻撃したりすることがあるからです。
イエス様は、「敵がいるぞ、気をつけろ、それはあなたかも…」というような脅かしをしようとはしていません。むしろ、その逆で、私たちに希望を持って、平安のうちに歩むようにこのたとえを語られています。というのも、このたとえと解説に間に大事なところが挟まっているからです。
31,イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、
32,どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
33,イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」
34,イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。
35,それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」
簡単に言うと、からし種やパン種のような小さくて目に見えないようなものが大きく成長するように、天の御国もそうやって成長すると言うことを教えています。その成長の大きさは、信じられないくらいだと言われているのです。
3 敵がいる現実の中でも、成長と最後への信頼を抱く
この成長する天の御国という理解をもとに今日のたとえを読み返してみましょう。
24,イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
25,ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
26,麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。
27,それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
28,主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
29,だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
30,だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
私たちの世界には確かに「敵」がいます。さまざまな悲しい出来事や、人間関係での争いなどがあります。毒麦のように思えることがたくさんあります。大事なのは、「私たちが何か間違えたのか」という事でもないし、「神様に欠陥があるのか」ということもでもないのです。
そうではなく、「敵」がいる。なぜ、敵がいるのか、どこから来たのか、その答えは語られません。分かりません。しかし、敵がいる現実がある。そして、毒麦がある現実の背後には敵がある。
しかし、その敵の攻撃を必要以上に恐れたり、毒麦によって支配されてしまうのではないかと恐れたりする必要はないというのです。主人は心配していません。
最後まで放っておけと言われるのは、「放っておいても大勢に影響はない」ということです。それで畑の収穫がダメになることはない。毒麦の成長スピードや影響力と、良い麦の成長速度と広がりは比べ物にならない。だから、最後まで信頼しなさいというのです。それくらい、神様がもたらしくださる天の御国は確かなものなのです。
〜敵はいるけれど、神様を信頼して歩んでいい〜
私たちは困難なことがあると、不安になり、そのことで頭がいっぱいになり、まるで「世界の終わりだ!」となってしまいます。今のコロナの影響が広がる世界もそうではないでしょうか。
確かにコロナについての警戒と対策は必要です。しかし、コロナで世界は滅びません。そして、イエス様の与えてくださる福音は、私たちに平安をもたらし、どのようなことがあっても広がっていきます。
一見すると、その部分が負けたように、汚染されたように見えるところがあるかもしれません。しかし、大局的に歴史をみた時に、まさにからし種やパン種のように小さかったあの弟子たちから福音は世界中に広がりました。
福音が伝わっていく際に、敵はいました。というよりも、いつも敵がいて妨げてきました。あるときは負けたように見えました。それでも、福音は滅びませんでした。広がっていきました。神の国は確かに拡大しました。
イエス様の語る福音を信じるというのは、敵がいなくなる平安ではなく、敵がいても、信頼できる方がいるということです。そして、その最後は保証されている。だから、大丈夫なのです。
私たちもまさに敵がいる現実を生きます。それでも、大丈夫です。もっと力強く、大きな実りを与えてくださる方がおられます。平安のうちに、希望を持って1週間を歩めますように!