おはようございます。清瀬バプテスト教会の牧師の松田です。今年4月から教会のブログを開始しました。東京や大阪では緊急事態宣言の中での聖日礼拝ですね。思うように会堂に集まれない時ですが、それぞれの場所で、神様を礼拝し、平安と希望をいただけますように。

今日の礼拝で読まれる聖書とそのお話についてシェアいたします。

ローマ人への手紙13章8節〜10節

8,だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

9,「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。

10,愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

 

〜「愛は律法を全うする」という力強いことば〜

聖書の中で最も大事な戒めは何かという問いに対して、イエス様は「…あなたの神である主を愛せよ」と「隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:36〜40)と答えられています。それは「神を愛し、人を愛する」とまとめられます。

しかし、パウロはその二つの中でも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」を挙げ、この言葉のうちに律法は全て要約されているというのです。そして、「愛は律法を全うする」と力強く宣言します。

「一番大事なのは神への愛だ!」とは言わずに、「隣人への愛」にこそ律法全体が要約されていることに驚かされます。パウロが語ろうとしている愛とは何か考えたいと思います。

 

〜「愛」とは何だろうか?何に「愛」を感じるのだろうか?〜

そもそも「愛」とは何でしょうか。「愛する」とははっきりと「これだ!」と定義できるものではありませんよね。私は「愛とは何か」を最近、三浦綾子の「細川ガラシャ夫人」から考えさせられました。

ガラシャ夫人の夫である細川忠興は、妻である珠子(ガラシャ)を愛しているが、人目に触れることを恐れ、家から外に出るのを禁じます。常に妻が他の男に言い寄られていないかを案じる日々で、最後に妻が死んで泣き悲しみますが、それと同時にとうとう、お玉は、わし一人のものであったと安堵したとありあす。

妻を愛しているが信用せず、人を信用せず、死んで初めて安心する。それは果たして愛なのでしょうか。一つの愛の形かもしれませんが、それは人を拘束する愛であり、皆が願う愛の形ではないでしょう。「これが俺の愛の形だ!」と開き直るのではなく、「これは本当に愛か?」と問うことが必要なのではないかと思わされます。

パウロが「互いに愛し合いなさい」と語る時の、愛は全く違います。

 

1.「にも関わらず」の神の愛に圧倒的「借り」を覚える cf)ローマ5:5〜8、1:14

パウロが語る愛は自己中心の愛ではありません。互いに愛し合う土台となる愛は、「罪人だった時に私に注がれた神の愛」です。

パウロは自分が受けた愛のことを前提に語っています。それはパウロがイエス様を迫害している最中に受けた神の愛です。最も愛されるにふさわしくない「にも関わらず」、パウロは滅ぼされることなく、赦された。それがイエス様の十字架なのだと彼は知ったのです。

神の愛は、自分のお気に入りのため、都合の良いもののためにではなく、不敬虔なもののために注がれた。愛される価値がない時に、愛された。それが神の愛だった。

パウロは自分の受けた愛を思う時に、これはとても返しえない「(恵みの)負債」(1:14)を負ったと感じたのです。けれど、それは追い立てられるような借金ではありません。この負債は「借り」があっていい。お金や物を借りたら返さなければいけませんが、愛については別だと語ります。私たちは神様から受けた愛を返しえません。借りしかない。返そうとしてもまた恵まれる。だから「借りっぱなし」でいいのです。その「借りっぱなし」という恵みは私たちを謙虚にさせます。私たちは与えられたものでしかできていない。そのことに気づくのです。

 

2.「にも関わらず」の神の愛で人から愛され、そして自分を愛する

クリスチャンはこの神の愛に出会った人たちです。この愛で愛された人たちは、同じ愛で愛したいと願います。不完全かもしれませんが、それでもイエス様に倣う愛で愛したいと思います。

パウロもただ神様に愛されただけではなく、具体的にクリスチャンの兄弟姉妹に愛されました。迫害者だったパウロを教会は拒絶したり、裁いたりせずに受け入れました。そして、パウロの危機の時には教会は彼を助け支えました。教会はまさにイエス様の愛でパウロを愛しました。パウロは十分に教会の人々からもイエス様の愛を受け取りました。パウロは神様にも人にも借りを受けていました。だから、またパウロも見返りを求めずに愛する人になりました。

愛された経験は人に力を与えます。まず、自分を愛することができるようになる。悪いことをしてきた自分だけれども滅んでいい存在なのではなく、神様と人から「生きよ」と言われている存在なのだ。自分が自分を愛せない時にも、神様は愛するに価値あると認めてくださっていた。だから何かができる自分ではなく、何もできない自分を愛することができるのです。パウロを動かした愛は、今も神様から注がれ、教会の中でも溢れています。

 

3.「にも関わらず」の愛で、人を愛せるものになることを願う

自分を「にも関わらず」の愛で認め、愛せるようになると、自ずと人をその愛で愛せるようになる。それは、「頑張ってそうなろう」とするのではなく、愛されたように愛そうとなるものです。

もし、「何かできる自分」しか認められてこなかったとするならば、私たちもまた同じはかりでしか人を愛することしかできません。自分も人も「何かできる」ことしか愛せなくなります。

だからこそ、まず自分を「にも関わらず」の愛で愛する。いや、すでにその愛が注がれているのだから、同じようにまず自分を愛します。その先に、律法を全うする愛が見えてくるでしょう。どうすればいいかはその先にあります。

究極的には、「相手が変わらなくても愛する」ということかもしれません。細川忠興は珠子から愛されても変わらなかった。それでも珠子は変わらず、主に仕えるように夫に仕え、その人生を全うしました。夫からは歪んだ愛しか受け取れませんでしたが、珠子にはもっと別の愛、神の愛を受け取っていたので、だからただ愛することができたのではないでしょうか。

受けた愛で愛する。そのためにもイエス様の愛のうちにとどまりたいと願わされます。