おはようございます。清瀬バプテスト教会の牧師の松田です。今年4月から教会のブログを開始しました。引き続き、東京や大阪では緊急事態宣言の中での聖日礼拝ですね。思うように会堂に集まれない時ですが、それぞれの場所で、神様を礼拝し、平安と希望をいただけますように。

今日の礼拝で読まれる聖書とそのお話についてシェアいたします。

マタイ13:24〜43(3)

マタイの福音書13章

36,それから、イエスは群衆と別れて家に入られた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。

37,イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。

38,畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。

39,毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。

40,ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。

41,人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、

42,火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

43,そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

 

1.「毒麦のたとえ」と「解き明かし」が分断されていなかったら…

この「たとえの解き明かし」は、「たとえ」自体を読んだ時とやや強調点が違うように感じないでしょうか。というのも、「たとえ」自体のポイントは、30節「だから、収穫まで、両方育つままにしておきなさい」というところにある。つまり、「毒麦あるけど放っておけ」ということで、今の問題についてどう向き合うべきかに強調点があるように見えます。

しかし「解き明かし」の方は、「収穫(世の終わり)はどうなるか」ということに重きが置かれているように見えます。しかも、「敵がどうなるか」ではなく、「毒麦がどうなるか、その末路」に関心があるのも何か不思議な感じがします。普通に考えれば毒麦よりも敵の方が悪いのだから、その敵こそがどうなるか知りたいものです。

ここで、少しこのマタイの文の配置を考えます。もし、この「毒麦のたとえ」と「解き明かし」がそのまま続いて書かれていたら、印象はずいぶん変わると思いませんか。おそらく、読者は「放っておけ」よりも「毒麦の末路」の印象だけが残ってしまわないでしょうか。

特に「毒麦の末路」に関心が向ってしまうには理由があります。それはマタイの福音書が書かれた当時の教会の状況を考えるとわかる気がします。

 

「毒麦」と思われるような人々に囲まれていた各地の小さな家の教会〜マタイの福音書の背景〜

マタイの福音書の時代(AD80年頃)の教会は、外と内との両方の問題を抱えていました。外側からの問題は、ユダヤ教からのもので、教会は異端扱いをされていましたし、またローマ帝国内では公認のユダヤ教とは違い、教会は非公認組織でした。その教えへの誤解ゆえに、散発的に各地で迫害も起こっていました。

また、教会の内側では様々な異端も生まれ、教会は悩まされていました。「クリスチャンでも割礼をすべきだ」というユダヤ主義者や、「イエス様が密かに語ったもっと高いレベルの教えがあるぞ」というグノーシス主義者などが起こり、教会はまさに内憂外患でした。

教会の内にも外にも「毒麦と思われる者たち」ばかりだったのです。当時の世界を畑と考えるならば、ほとんどの人が毒麦として焼かれ、収穫できるのはわずかと感じないでしょうか。ほとんど燃やされて、収穫がわずかなら、それは失敗ではありませんか?これは現代の私たちも周囲を見渡すと感じることかもしれません。

 

2.「からし種&パン種」から「毒麦」を眺める

しかし、この毒麦とその解き明かしは「からし種」と「パン種」を間に挟みます。つまり、今はたとえ小さな群れであっても、そこから確かに成長するということです。「終わりの時の収穫はわずかではないか」などと心配するのは及ばないのです。終わりの時の収穫は豊かなのです。

この文脈で毒麦の解き明かしを眺めると、また違う響きがします。最後の収穫、つまり世の終わりには、良い麦がたくさんある。どんなに悪者たちが毒麦を蒔いたからといって終わりの時の豊かな収穫は変わらない。そして、その時には敵の放った毒麦たちはきちんと主によってふさわしい裁きの元に置かれる。そして、「正しい者たちは父の御国で太陽のように光り輝く」とあるように、黄金に色づく秋の収穫の情景のように、イエス様は終わりの時の豊かなみのりと正しい裁きを語ってくださっている。

だから、大丈夫。今はいろいろなことがあるけれど、収穫の心配をせずに歩めばいい。毒麦もちゃんと神様が相応しく処置してくださる。そう思うと、カリカリしたり、不安になったりないで済むのではないでしょうか。

 

3.マタイ全体から教会内の問題について見つめるcf)マタイ18:15〜20、21〜35

ただし、このたとえもまたマタイの福音書全体で捉える必要があります。というのも、「毒麦はそのまま放っておけ」というのを極端に理解して、教会内で問題があっても、何も処分をしてはいけないということではないからです。マタイは18章で問題が起こった際の対応について語っています。

マタイの福音書18章

15,また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。

16,もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。

17,それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

18,まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。

19,まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

20,ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

教会は現実に起きる様々な問題に向き合う必要があります。決していつも「放っておけ」ばいいというわけではない。現実に教会内で苦しむ人がいたり、あってはならないことがあれば、教会はその問題から目を背けてはいけません。

しかし、その18章もこの直後に「何度まで許すべきでしょうか」という問いから始まる「七の七〇倍赦せ」というたとえ話に繋げていきます。

21,そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

22,イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

23,このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。…

つまり、問題には対処しないといけない、けれど、主の赦しの御業を思いつつ、ギリギリのところで問題に向き合うべきであることを伝えているように思われます。

人間は「毒麦は抜き集めましょうか?」となり、純粋性を追求すると、裁き合いになります。かといって、問題が起こっても対処せずに「放っておく」こともまた誰かを苦しめることになります。終わりへの確信をいただきつつも、ギリギリまで主の赦しを思いつつ、向き合うものです。

 

〜「なんやかんや」あるけれど、神様の備えておられる最後に信頼して、成長を期待する〜

確かに今もなお教会を取り巻く状況では外にも内にも時に敵がいるように感じることがあります。毒麦のような状況はいつの時代にも起こってきました。渦中にいる時には、「もうダメじゃないか」と嘆きたくなることも時にはあるでしょう。けれど、私たちは希望を失いません。この主が約束を与えてくださっているからです。

地上では本当に「なんやかんや」あります。だけど、神様は確かに成長を約束してくださっている。イエス様がそれを見据えておられ、確かにそのようになってきました。イエス様が蒔かれたわずかな種である弟子たちから御国は確かに広がり続けていきました。

だから、大丈夫。なんやかんやっても終わりを信頼して今日という日を共に生きていきましょう。