おはようございます。清瀬バプテスト教会の牧師の松田です。今年4月から教会のブログを開始しました。先週1週間は牧師になって初めて教会からお休みをいただき、ブログもお休みいたしました。何か「お久しぶりです」とか「ただいま」とお伝えしたいような気がします。
さて、毎週日曜日は、今日の礼拝で読まれる聖書とそのお話についてシェアいたします。
〜ペンテコステと聖徒記念礼拝が重なって…〜
今日は教会にとってとても大事な日の一つであるペンテスコテです。聖霊が弟子たちに降り、そこから教会は始まりましたので、教会の誕生日だと言われています。
ただ、私たちの教会では今日5月23日は聖徒記念礼拝でもあります。聖徒記念礼拝とは、教会で共に信仰生活を送っていた方々で、先に天に召された兄弟姉妹を思い起こす記念の礼拝で、毎年5月第4聖日に行っています。
ペンテコステは変動しますので、聖徒記念礼拝の5月第4聖日と数年に一度重なります。2021年はペンテコステと聖徒記念礼拝が重なる年となりました。
一見すると、関係のないように見える二つの記念ですが、重なり合うところがあります。それは、「痛みの後からの再出発」という点です。
〜分離の痛みを超えて、新しく自らの足で立って歩むために〜
聖徒記念礼拝は先に召された兄弟姉妹を思い起こす日であり、それは愛する人との分離(葬儀)から、徐々に元の生活に戻っていく過程のプロセスにあるものです。
ペンテコステもまた、愛するイエス様を失った弟子たちの再スタートの出来事と言えます。そして、その分離の痛みの中にある兄弟姉妹のうちに聖霊が降り、教会としてスタートしたのです。ペンテコステが来るたびに、私たちは聖霊が降ったことを思い起こし、聖霊によって今の教会が立っていることを覚えます。
ペンテコステは愛する人、信頼していた人を失ったものたちの自立の日であったと言えます。聖徒記念礼拝もまた愛する人との分離を確認して、私たちが聖霊によって自立していく日と言えます。
そのことを思い起こすために、聖書箇所を読んでいきます。本日は3つの聖書箇所を開いて読んでいきます。最初にヨハネの福音書からです。
ヨハネの福音書16章5〜7
5,しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。
6,かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。
7,しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
1.愛して頼ってきた人と別れることも、私たちのため(ヨハネ16:8)cf)創世記2:24
この場面はイエス様が十字架にかかる直前の最後の晩餐の席上での言葉です。イエス様はこれからご自身が去っていかれることを弟子たちに告げます。しかし、それは虚しい敗北ではない。むしろ、ご自身が去っていかれることの方が弟子たちのためだと言われる。どういうことでしょうか。
イエス様は目に見えるご自身にべったりになることを望んでおられませんでした。むしろ、イエス様はご自分が去って、聖霊が助け主として弟子たちのうちに内住されることの方が良いと言われています。そうすれば、これまでイエス様が弟子たちに語って来られたことを聖霊が思い起こさせてくださる。そればかりか、イエス様がされたことよりももっと大いなる働きをするようになると約束されている。だからこそ、イエス様はご自分が去っていかれることが良いと言われている。
つまり、イエス様の願いは弟子たちが聖霊によって自立することと言えるでしょう。そして、この自立こそ、大事な聖書の中心テーマの一つだと言われています。ある神学者は創世記2:24の「父母を離れ二人は一つとなる」を挙げ、聖書を貫くテーマとして「自立」を見ています。
自立していくプロセスには養い、育ててくれた人から離れることがあります。親であれば子どもが最終的に自分で生きていく力を育むことを願います。それと同じように、イエス様は弟子たちに目に見えるイエス様に頼るのではなく、聖霊によって自ら神の道に生きていくことを願っておられる。
しかし、それは見捨てるということではありません。むしろ、聖霊によってイエス様が私たちのうちにいてくださる。「教えて、教えて」と言ってそばにいた時にはわからなかったイエス様が、見えなくなってむしろより近くなる、よりわかるようになる。イエス様がそのようにしてくださったのです。分離もまた愛なのです。
イエス様と人間の親子の分離は必ずしも同じではありませんが、やはり成熟した親子関係は相応しく分離します。親はまた子供の分離、すなわち子供が自分で生きていけるようになることを喜びます。
しかし、時に私たちはこのことに難しさを覚えます。親は、子供をみて「私がいないとダメになる」と思い、また子供も親を思って「私は両親のように立派になれない」と不安に思ってしまうことがあるかもしれません。私たちは時に、「まだ十分に成長していない」と感じます。
その時に、思い出したいのがこのペンテコステのタイミングです。
2.タイミングは最悪、でも弟子たちは自らの足で立ち、語り始められた(使徒2:1〜11)
聖霊を弟子たちが受けたペンテコステの時、それは決して弟子たちからしたらいいタイミンではありませんでした。確かに復活のイエス様にお会いしました。しかし、それで彼らが自信満々かといったらそうではありませんでした。
イエス様の召天後、弟子たちが最初にしたのはユダの欠員の補充でした。裏切ったものの欠員の補充。そして、一つの場所に集まって閉じこもって祈っていたのです。
弟子たちはイエス様が離れていったらどうなるのかと心配していたことでしょう。イエス様を裏切るような自分たちを信頼できたとは思えません。ユダヤが特別ではないと誰もが思っていたでしょう。みんなイエス様を結局見捨ててしまったわけですから。また、イエス様を迫害したように自分たちも迫害されるかもしれないと恐れもあったでしょう。
私たちの目からすると、分離のタイミングではないように思います。順風満帆の時に次のリーダーにバトンタッチしたというのではありません。不安や恐れの中でペンテコステを迎えたのです。
私たちの目からすれば「時ではない」ように思いますが、まさに、神様の時はこの時だったのです。聖霊が弟子たちに注がれるとき、タイミングなど関係なく立ち上がったのです。
使徒の働き2章
1,五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2,すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3,また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
4,すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
5,さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
6,この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
7,彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
8,それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
9,私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
10,フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
11,ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
実際に弟子たちは聖霊を受けて語り出したのです。これまでにないくらいはっきりと聖書の言葉を語り、人の顔を恐れず罪を迫り悔い改めを説きました。イエス様が一緒だった時には語れなかった力強さで持って、彼らは語り出したのです。
そして、多くの人が弟子たちの言葉を聞いて悔い改めてイエス様を信じるものとなった。イエス様が地上で働かれていた時以上のことが起こったのです。しかも、これがイエス様が殺されたエルサレムで起こっている。イエス様最後の地であるエルサレムから聖霊による逆転が始まっていきます。ここから福音は世界中に広がっていくのです。
最悪のタイミングであったのに、最高の結果となりました。だからこそ、神様を賛美します。弟子の自立もまた神様の力による、つまり自立とは自分の努力によるのではなく、神様が神様の時に神様のやり方でしてくださるのです。
聖徒記念礼拝は愛する家族や兄弟姉妹との分離を思い起こす時です。ある人は天寿を全うして、「良いとき」に天に召されます。しかし、ある人は私たちからすると「最悪のタイミング」と思える時に取り上げられてしまうことがあります。まだまだ人生これからという時だったのに急な病で召される、幼い子どもを残して召される、私たちにはとてもいいタイミングではない死別があります。それでも、神様はまた再び立ち上がる力を与えてくださる。神様は決して見捨てることはない。立ち上がる力は上から来るのです。
3.聖霊を受けて自立したものたちは、互いに支え合い続ける(使徒2:40〜47)
「自立をする」と聞くと、「もう誰にも頼らなくて、自分勝手に生きていく」という様子をイメージしてしまうことがあるかもしれません。しかし、本当の自立はそうではなく、「互いに支え合う」ものとなるのです。ペンテコステで聖霊が注がれた弟子たちの姿に真の自立したものたちの姿があります。
40,ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
41,そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
42,そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
43,そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。
44,信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
45,そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
46,そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
47,神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
弟子たちは自己中心になったのではなく、むしろ互いに助け合うものたちになったのです。イエス様がいたときは逆に「誰が一番偉いのか」ということで揉め合うようなものたちでした。イエス様がいた時はむしろ助け合えなかった、抜け駆けしようとするようなものたちだったのです。
それが聖霊が降って彼らは変わりました。互いに教え合い、支え合い、まさに家族となっていったのです。
自分のうちに聖霊という確かな方がおられることを信じるものたちは、誰か人に依存的になることがありません。「イエス様が共にいてくださるから大丈夫」、聖霊はそのように私たちが孤独ではないことを教えてくれます。
しかし、それは物心両面で全部充足しているわけではありません。何かに事欠く時がある。その時には、主を信頼しつつ兄弟姉妹に「助けてください」と言えて、また兄弟姉妹も困っている仲間を見て「助けるよ」と言い合います。助けるー助けられるという関係は決して支配―服従ではありません。受けたものが与えるものとなる。信頼して相互に与え合うものとなる、それこそ神様の意図された本来の人と人の関係です。
聖徒記念礼拝は、召された遺族の親族のためだけの日ではありません。互いに兄弟姉妹として、悲しみの時には悲しみを分かち合う時です。遺族は遺族だけで泣き悲しむものではありません。互いに悲しみから立ち上がる力を主にいただきます。
今年に入って、私たちの教会で愛する姉妹が天に召されました。子供と孫、ひ孫に囲まれて天に召された姉妹で、信仰において家族の屋台骨のような方でした。教会の中でも、静かな方でしたが、折に触れて励ましの手紙をくださり、いつも兄弟姉妹のために祈られている方でした。
葬儀の過程で、家族の方と共に教会の兄弟姉妹方が一緒に悲しんでいる姿が見えました。ある姉妹は、本当の家族を失ったかのような悲しみを抱かれています。しかし、その悲しみが遺族の悲しみを癒しています。一緒に悲しんでくれる人がいる、それが教会です。イエス様によって自立しているから、互いに労ることができるのです。
〜イエス様と共に、イエス様なしで生きる〜
ペンテコステは、弟子たちが「(聖霊によって)イエス様と共にある」、主の臨在を強く覚える日ですが、同時に「(見える)イエス様なし」で生きていくスタートの日だとも言えるのではないでしょうか。
もう、生きておられ目の前で色々と教えてくれるイエス様はおられません。弟子たちは自分たちで事態に対処していかなくてはいけません。問題に直面する中で、「イエス様が語られたこと、なされたこと」を聖霊が思い起こさせてくださる。しかし、実際に目には見えない、声も聞こえない。その中で、生きていきます。「イエス様が共にいてくださる」という臨在は確かにあります。しかし、直接質問して答えが与えられるということはありません。
聖霊を受け取っても、弟子たちは無敵になったわけではありません。教会はなお人間の弱さによって、問題を抱えていきます。小さいところでは食事の分配の問題から、アナニヤとサッピラによる不正の問題、異邦人を受け入れていいのかという教会の根本に関わる問題まで、弟子たちは「イエス様と共に、イエス様なしで」立ち向かいました。
聖霊が降ったというのは「全部の正解が一気にわかる」ということではありません。なお「これでいいのか」と悩むことがあります。けれど、その悩む私と共にイエス様はいてくださる。イエス様なしだけれども、イエス様と共にその課題に向き合うのです。
使徒の働きを読む私たちは、その全過程において聖霊の導きを覚え、神様をほめ讃えますが、渦中の弟子たちにはそれが見えません。それでも、確かに主の導きはありました。ペンテコステはまさにこの「イエス様と共に、イエス様なしで生きる」ことが始まった日です。
〜あなたと共に、あなたなしで生きる〜
聖徒記念礼拝も、同じように「あなたと共に、あなたなしで生きる」ということを覚える日だと思うのです。愛する家族、兄弟姉妹を失います。どれだけ支えてくれた人であったとしても、大事なことはそこから自立して生きていくことです。
自立するというのは、十分にその人から受けたからこそスタートできることですが、それでも悲しみというのは残ります。また、十分にその人との交わりから受け取れたものがないときに、痛みや苦しみが残ります。
だからこそ、この聖徒記念礼拝を教会で行えることに恵みを覚えます。なぜなら、「私にはなお神の家族がいる」ということを刻み込むことができるからです。悲しんでいるあなたと共に、兄弟姉妹も悲しみます。
あなたと共に、あなたなしで生きるー教会は聖徒記念礼拝でそのことを覚えます。既に天において主の元にいて、天で礼拝をささげておられる。そして、私たちもまた地上において、主を礼拝する。あなたと共に、あなたなしで生きていく。ペンテコステにおいて、聖霊が降っている兄弟姉妹と共に生きていきます。