マタイの福音書28章

16,しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。

17,そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

18,イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

19,それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

20,また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

マタイの福音書の最後はイエス様の言葉で終わっています。一般的に「大宣教命令」と呼ばれ、イエス様の最後の言葉だからこそ、歴史の中で多くのクリスチャンによって真剣に受けとめられてきた言葉です。

もちろん、真剣に受け取るべきところですが、「宣教、宣教」と言われると、何か「宣教しなさい」が「宿題やりなさい」のように聞こえて、「宿題まだやれていない」というようにうなだれてしまう思いがしてしまいます。

しかし、今日覚えていただきたいのは、弟子たちも、歴史の教会もみんな同じように恐れと不安の中で宣教をしたのだということです。

17,そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

弟子たちは復活のイエス様にお会いしました。死者の中からよみがえられた。まさにご自身が神であられることが証されました。だから、礼拝します。礼拝するということは、もはや人間だとは考えていません。ユダヤ教は神以外を礼拝することは偶像礼拝として禁じていました。つまり、ユダヤ人である弟子たちが礼拝したというのは、イエス様は神であることを信じています。

けれども、同時に疑うものもいたのです。これは、弟子たちのほとんどは信じ切っていて、ごく一部のものが不信仰だったというよりも、弟子たちみんなが復活のイエス様を神様として信じつつ、同時に疑いの心をもっていたと理解できるところです。

弟子たちは、その目で復活のイエス様を見てもなお、疑う心をもっている。ある意味で、真っ当ではないでしょうか。信じているのです。けれど、今目の前で起こっている出来事を理解できないところがある。そのほうが、誠実であると思います。

また、ここにはマタイの福音書の最初の読者の姿が反映されているとも言われています。マタイの福音書はAD80年ごろに書かれたと言われています。AD30年ごろにイエス様が十字架にかかられ、よみがえられたとすると、約半世紀の時が流れています。

マタイの読者たちは二代目クリスチャンたちも多かったと思われます。親の世代は復活のイエス様に直接お会いしたかもしれない。そして、ペンテコステからの偉大な宣教を見てきた。けれど、その子ども世代の時代には、情勢が変わっています。ユダヤ教から信仰を持つようになるものたちは少なくなり、地域によっては迫害も始まっている。

親たちと自分たちとでは宣教の状況が違うのです。イエス様の復活を信じています。けれど、どこかで信じきれない心も抱えている。その中で、イエス様の声を聞くのです。

18,イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

イエス様は「不信仰もの!」と言われませんでした。そのような信じつつ、疑いつつのものたちに近づいてくださる。そして、ご自身が今もっている天と地との権威について宣言されました。

そして最後に言われたのが、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」という共にいてくださるという臨在の宣言でした。

この言葉を聞いて弟子たちの疑いや不安が拭い去ったかどうかわかりません。マタイの福音書はこのイエス様の言葉でもって終わり、あとは聞いたものたちに委ねられています。

しかし、私たちは知っています。あの信じつつ、疑いつつだった弟子たちと、その後の教会によって、宣教は全世界へと広がったということです。神様はそのようなものを用いてくださる。だからこそ、信じます、これは人間の力ではなく、神の力だと。イエス様は不安や恐れのある弟子たちをそのまま用いるからこそ、ご自身の栄光を表されます。そして、それがイエス様への礼拝につながります。

疑う心があってもいい、その中で用いてくださる主に信頼して、一歩ずつ前に進みます。