創世記3章
4,そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5,あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
6,そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
7,このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
知識や情報はあればいいというものではない
教育はとても大切です。教育によって、多くの人が新しい人生の可能性を見出したり、古い世界から新しい世界へと進むことができました。知らなかったことを知る、それは素晴らしいことです。
しかし、全ての知識や教育が人を本当に自由にするとは限りません。むしろ、知ったがために自らを恥じたり、誰かを軽んじたりすることも行われてきました。知識は人を高ぶらせることもまた真実です。
聖書は最初の人、アダムとエバが蛇の甘い言葉の誘惑にあい、神様が食べてはならないと命じられた木の実を食べてしまいました。神様は、決してケチな方ではありません。アダムとエバが置かれていたエデンの園では、そこにあるどの木からも取って食べてよかったのです。ただ一つ、「善悪の知識の木」からだけ取って食べてはいけないと命じられたのでした。
なぜ、神様は食べてはならないような木をアダムとエバの近くに置かれたのでしょうか。それは、神様と人間の関係を表すためです。神様は全てのものを与えてくださいます。しかし、人間はどこまでも人間であり、神様ではないことを覚えるためです。「善悪の知識」とは、何が正しくて、何が悪いことであり、それは神様がお決めになることです。蛇はそれを食べると「神のようになれる」と誘惑しました。つまり、何が正しいことで、何が悪いことかは神様が決めるのではなく、自分たちで決めるということです。こうして、アダムとエバは神様から離れる決意をしたのです。
しかし、その結果は惨憺たるものでした。アダムとエバが知ったのは、神様から離れた自分たちがいかに裸であるか、つまりもろくて弱い存在であるかということでした。そして、一生懸命裸の部分を隠そうとしますが、それは木の葉で覆うような情けないものに過ぎません。
ここには、真理があります。人間は「神などいない、自分でなんでも決める」と傲慢になっていますが、その結果は神なしの世界でいかに自分が頼りないかを知るのです。そして、一生懸命その弱さを覆おうとしても、それは所詮、木の葉で覆うようなものに過ぎないのです。どこまでも人間は弱い存在に変わりありません。
現代では情報が何よりも大事とされています。しかし、その情報の消費期限はとても早い。絶えず新しい情報を手に入れないと、いけないように焦らされます。その姿はまるで裸の部分を隠そうとする木の葉が覆っては枯れて、覆っては枯れてとやっているようです。みんな自分の無知を晒されるのを恐れています。
イエス様を知れば知るほど、自由になり平安と喜びが溢れる
ローマ人への手紙5章
5,この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
6,私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
7,正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
8,しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
9,ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
10,もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
11,そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
聖書は真の知識、真の教育とは、神の元に戻ることであると教えます。人間は神様から離れたことで、自らが弱い存在であることに気づき、自分で被わなければいけないと思うようになりました。しかし、神様はそんな自分の元から離れていって、惨めになっている人間をお見捨てになってはおられません。神様が願っておられるのは、私たちが神様と和解することです。
私たちを本当に自由にする知識は、「イエス・キリストを通して表された神の愛」を知ることです。
蛇であるこの世界は「神様は、嫌なやつだ。お前は神から離れて自由になれ」と言ってきましたが、それこそフェイクニュースでした。そうではなく、イエス・キリストを通して明らかにされた真実の知識とは、「神様は私たちが罪人である私を救うために一人子を与えられた。それほど私もあなたも神に愛されている」というものでした。
人間が一番悪い時、一番罪深い時に、神は愛されたというのです。それが十字架でした。十字架は、どんな罪人のことも諦めない神の愛が明らかにされています。
そこからわかるのは、このイエスをキリスト、私の救い主として信じる時、もはや私たちは神様を恐る必要はないという真の知識です。そして、もう私が裸であること、つまり何か足りないと言って恐れながら生きなくいいということです。もう一度、裸で安心して生きていけるようになるのです。
私には知らないことがたくさんある。わからないことがたくさんある。けれど、ただひとつ、神様がイエス様によって私を愛してくださっていることだけ知っている。このことを知っていれば、必要なものは与えられると信頼することができます。
聖書は私たちが神様の元で裸であって大丈夫だと教えています。空の鳥、野の花をお造りになり、顧みていてくださる天の父なる神様は、私たちのことをよくしてくださらないことはありません。本当の知識と教育とは、私たちはそのままで大丈夫だということを教えてくれます。
神の愛が私たち一人一人をこれからも自由にしてくださいます。