マタイの福音書14章

13,イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。

14,イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。

15,夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」

16,しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」

17,しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」

18,すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」

19,そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。

20,人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。

21,食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。

 

イエス様ってあたたかい

イエス様って、なんてあたたかいのだろうと感じます。イエス様は神の子であり、この地上を治める王の王であるお方です。けれど、私たちが考えるような支配者ではないのです。

私たちの日本の現状を思うと、そのことを強く感じます。というのも、私たちの国の権力者は、「与えず、脅かす」というとても「冷たい」統治の仕方をしているからです。そして、一部の人の利益のために動く。自分たちの欲望や言動もコントロールできない権力者の姿は、まさにヘロデの統治の姿そのものです。ですから、不安と不満が渦巻ます。

だから、イエス様の姿はとてもあたたかく感じます。なぜ、そう感じるかというと、一番深いところにあるものが「深い憐れみ」だからです。この「深い憐れみ」は、「内臓」という言葉から来ています。つまり、ただの「かわいそう」ではなく、はらわたが締め付けられるような、胸がぎゅっとするような憐れみです。

この憐れみという言葉には体温を感じます。そして、実際にその憐れみは、イエス様の元に身を避けてきた人の病気を癒やし、不安や恐れを取り除く言葉を語られるところに現れました。そして、最後には食卓まで準備してくださった。治療代も授業料も取らない。最後は食事まで準備してくれた。ただただ与えてくださった。これが真の王の姿、真の神の姿です。

イエス様って、あたたかいんです。そして、私たちを一人に決してしない。一緒に食事を食べる家族を与えてくださった。誰も見捨てられることがない。だから、私たちはイエス様の元に身を避けます。毎週日曜日に共に集まり、礼拝をささげます。するとイエス様が養ってくださいます。平安を与え、満足させてくださいます。日毎の生活の中でも、イエス様と一緒に過ごすのならばそこには本当に安心と安全があります。

与えられるものはパンと魚という素朴なものかもしれません。しかし、そこにはあたたかさがあり、本当の満足があります。豪華な食卓でも不安や恐れがあれば一時的な快楽しかもたらしません。けれど、イエス様が与えてくれるものは、深いところを満たすものがあります。

この不安や恐れの時代だからこそ、真の王は誰か。誰を私たちは王として生きたいのかを考えたいと思います。イエス様はあなたをいつでも迎えてくださいます。