詩篇76篇

指揮者のために。弦楽器によって。アサフの賛歌。歌

1,神はユダにおいて知られ、御名はイスラエルにおいて大きい。

2,神の仮庵はシャレムにあり、その住まいはシオンにある。

3,その所で神は弓につがえる火矢、盾と剣、また戦いを打ち砕かれた。セラ

4,あなたは輝かしく、えじきの山々にまさって威厳があります。

5,剛胆な者らは略奪に会い、彼らは全く眠りこけました。勇士たちはだれも、手の施しようがありませんでした。

6,ヤコブの神よ。あなたが、お叱りになると、騎手も馬も、深い眠りに陥りました。

7,あなたは、あなたは、恐ろしい方。あなたが怒られたら、だれが御前に立ちえましょう。

8,あなたの宣告が天から聞こえると、地は恐れて、沈黙を守りました。

9,神が、さばきのために、そして地上の貧しい者たちをみな、救うために、立ち上がられたそのときに。セラ

10,まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ、あなたは、憤りの余りまでをも身に締められます。

11,あなたがたの神、主に、誓いを立て、それを果たせ。主の回りにいる者はみな、恐るべき方に、贈り物をささげよ。

12,主は君主たちのいのちを絶たれる。地の王たちにとって、恐ろしい方。

 

嘆きの74篇、裁きの約束の75篇、そして約束の成就の76篇

文章が何らかの印刷物で発行されるまでには、編集という作業が必ず行われます。編集者は影のクリエイターです。福音書の著者は編集者でもあります。どのように配置するかを慎重に考え、そこにメッセージ性を宿しています。この編集作業の過程にも聖霊の働きがあり、そこから私たちに汲み取るようにと神様が語ろうとされていることを汲み取りたいと思わされます。

詩篇にも編集によるメッセージ性が伺えます。この74、75、76篇の詩篇はまるでコンサートのプログラムのように意図的に配置されています。

詩人は74篇で都であるエルサレムの破壊を嘆きました。

詩篇74篇

2,どうか思い起こしてください。昔あなたが買い取られた、あなたの会衆、あなたがご自分のものである部族として贖われた民を。また、あなたがお住まいになったシオンの山を。

3,永遠の廃墟に、あなたの足を向けてください。敵は聖所であらゆる害を加えています。

神の臨在のしるしであった神殿を含むエルサレムが破壊されました。徹底的な破壊が行われたことを嘆き、神様に訴えました。

次の詩篇75篇で神様は公正に裁かれることを約束されます。

詩篇75篇 

2,「わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく。

3,地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたしは地の柱を堅く立てる。セラ

4,わたしは、誇る者には、『誇るな』と言い、悪者には、『角を上げるな。

5,おまえたちの角を、高く上げるな。横柄な態度で語るな』と言う。」

それはエルサレムを破壊したものたちへの裁きを神様がなさるという約束でした。悪者の角は切り捨てられ、正しい者の角が高くあげられる。神様が現状の逆転を約束してくださったのです。

そして、今日の76篇はその約束が成就したことの賛歌です。

詩篇76篇

1,神はユダにおいて知られ、御名はイスラエルにおいて大きい。

2,神の仮庵はシャレムにあり、その住まいはシオンにある。

3,その所で神は弓につがえる火矢、盾と剣、また戦いを打ち砕かれた。セラ

これはⅡ列王記19章のヒゼキヤ王の時の出来事が背景にあるのではないかと言われています。強大なアッシリヤ帝国がエルサレムに迫ってきて、絶体絶命というところで、ヒゼキヤ王は祈りました。そして、その祈りに神様が応えてくださり、一夜にして都を取り囲んでいたアッシリヤ軍が滅んでいたのです。その偉大な救いを体験した詩人が、主の御業を賛美します。

 

救いの出来事を記憶し続ける

冒頭で編集者は影のクリエイターだと述べました。ここの編集者の配列の意図を思い巡らします。実際に詩篇第三巻が一体いつまとめられたのかは定かではありませんが、エルサレム陥落の嘆きがあるわけですから、捕囚以後第二神殿あたりと思われます。

そうすると、イスラエルの歴史をたどると考えることがあります。エルサレムは神様によってアッシリヤから救われた経験と、神様によってバビロンを通して裁かれた経験の両方をしていることになります。単純化できる話ではありませんが、祈りが聞かれて助かった経験と、罪ゆえに裁かれた経験の両方をしている。そして、長い年月祈りが聞かれないという状況が続きました。

祈っても変わらない。そう思うと私たちの祈りの手は弱くなります。実際にそういう現実を多々経験するのが私たちです。けれど、確かに神様は約束を与え、それを歴史の中で実現してくださった事実がある。

詩人たちは嘆きます。なぜ祈りが聞かれないのかと率直に訴えます。それと同時に神様の約束の言葉を受けとめ、また実現したことを賛美します。これが信仰者の姿なのだと改めて感じます。それをユダヤ人は長い年月繰り返してきました。

 

イエス様の十字架と復活を記憶する

新約の私たちはイエス様の十字架と復活こそ神様がなされた偉大な救いの記憶です。そんな2000年前のことを信じて何になる?そう言われるでしょう。しかし、その2000年前の出来事の想起が、確かに信仰者を力付けてきました。それ以上に言いようのないことです。その救いの想起は人を生かしてきた。そして、これからも。

だから私たちも祈ります。聞かれない祈りの束を抱えて訴えます。訴えつつ約束の言葉に耳を傾けます。そして、歴史の中で生きて働き驚くべき業がなされたことを記憶していきます。アッシリヤから救われたような経験ほどではないしても、私たちの世界でも神様の御業が現れてきました。それを記憶します。そして、詩人と共に祈り告白します。

11,あなたがたの神、主に、誓いを立て、それを果たせ。主の回りにいる者はみな、恐るべき方に、贈り物をささげよ。

12,主は君主たちのいのちを絶たれる。地の王たちにとって、恐ろしい方。

 

誰がどう言おうと、それは起こった。そして、今も力を持っているお方である。それを信じて、主に仕えるものとさせていただきたいと願わされます。