「神の沈黙」という何よりも辛い苦痛

詩篇77篇

7,「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。

8,主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。

9,神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」セラ

10,そのとき私は言った。「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」

詩人は苦しんでいます。何が原因かはわかりません。いつまでも回復しない病気なのか、無実にも関わらず訴えられているのか、戦争で苦役に服しているのか。いずれにせよ、以前あったような平安はなく、長い苦難が続いています。

信仰者にとって何が辛いのかというと、苦難そのものよりも、苦難の中で神様が見えなくなってしまうことです。「祈っても状況が変わらない」ということは、「神様は私を無視されている」と感じるからです。

「ひょっとしてあの時、あの罪を犯したからだろうか」自分の過去を振り返れば「これが原因じゃないか」と思うようなことはたくさん思いつきます。だから祈りがきかれないのは自分の罪が原因かと思ってしまう。

 

自分の過去ではなく、神の過去の御業を思い起こす

11,私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。

12,私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。

 

ここで詩人は転換します。「私」という個人の中で何が原因かと考えるのをやめ、「神様が」どのような方かを思い出そうとします。具体的には、自分たちの先祖がどのように神様に救われたかを思い起こします。奴隷の地、エジプトからの脱出。特にその出エジプトの出来事の中でも、紅海が割れてその只中を歩んで救われた出来事です。

 

16,神よ。水はあなたを見たのです。水はあなたを見て、わななきました。わたつみもまた、震え上がりました。

17,雲は水を注ぎ出し、雷雲は雷をとどろかし、あなたの矢もまた、ひらめき飛びました。

18,あなたの雷の声は、いくさ車のように鳴り、いなずまは世界を照らし、地は震え、揺れ動きました。

 

「水」「海」は古代の人々の中では「死」「混沌」を表す言葉だったと言われています。海は地面に比べて不確かで制御できるものではないからです。船が難破すれば生きて帰れることはほとんどありませんでした。

しかし、その死の象徴のような「水」が神様をみてわなないたというのです。紅海を割ってその真ん中を歩いて助けられた奇跡は、神様が死をも制御されるお方であることを示しています。

 

あなたの足跡は海の中にある

19,あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は大水の中にありました。それで、あなたの足跡を見た者はありません。

 

その紅海の奇跡を思い起こす中で、詩人は一つの思いに辿り着きました。それは、「あなたの道は海の中にある」「あなたの足跡を見たものはいない」ということ。

神様が大いなる奇跡をしたけれども、その奇跡の跡はどこにも残されていない。遺跡が残されていないから出来事がなかったのではなく、遺跡は残っていないけれど、確かに主は助けてくださったということです。

詩人は苦難の中で神様の臨在のしるしを探し求めていました。それでもどこにも見つからない。祈りがきかれないということは、どこにも神のしるしがないということです。けれど、気づいたのです。たとえしるしは「海の中にある」と。

神の道は海の中にある。神の足跡はそこにある。誰も見ることはできないけれど、確かに救いの出来事はあった。そう考えるときに、たとえ今神様の臨在のしるしが見えなくてもそれで不安になる必要はない。主は私と共にいてくださる。そう思えてきたのではないでしょうか。

さらに想像を逞しくするのならば「神の道が海の中にある」ということは、「神の道は死のなかにある」と言えるのではないでしょうか。死で終わりではない。死んでもうだめだと思うその只中に神様の救いを見出すことができるのではないか。そう思えると、死自体を別に視点で捉えることができるのではないでしょうか。

 

十字架のキリストの死からいのちが溢れた

新約時代に生きる私たちはまさに「海の中に足跡がある」ということを信じることができるものたちです。なぜなら、十字架の中にこそ神の愛が溢れたと信じているからです。

十字架は死そのものです。しかし、イエス様は十字架で終わらなかった。よみがえられた。そして、その十字架の中に溢れるばかりの人間への神の愛がありました。そこに人間への罪の赦し、新しい永遠のいのちへの招きがありました。だから、十字架の中にこそ、神の足跡がある。

祈りがきかれないことがあります。神様が沈黙したままのように感じて苦しくなる時があります。けれど、十字架もまた神の沈黙でした。けれど、沈黙のまま終わらなかった。死という神の沈黙に見えるその只中にむしろ、神の愛はありました。

海の中に神の道がある。十字架の中に神の道はある。そのことが実感できるとき、私たちはもはや最後の敵である死を恐れなくなる。死は最後でなくなる。先にはいのちの主が待っておられます。