語られる歴史「神様の選びがエフライムからユダへ」
詩篇78篇 アサフのマスキール
1,私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口のことばに耳を傾けよ。
2,私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。
3,それは、私たちが聞いて、知っていること、私たちの先祖が語ってくれたこと。
この詩篇はイスラエルの歴史における大きな「なぞ」である「神の選び」について歌っています。神の選びは「アブラハムーイサクーヤコブ」までは族長としてよく語られますが、ヤコブの次に族長として選ばれたのがヨセフであることはあまり知られていません。ヤコブの臨終の場で祝福を受けたのはヨセフの二人の息子マナセとエフライムで、その中でも祝福を受けたのが弟エフライムでした(創48:14)。
出エジプトはレビ部族のモーセとアロンが中心に行われましたが、彼らの領域は霊的・倫理的な領域が中心で、戦争などに出て行ったのは他の部族でした。その中でもモーセの従者であり後継者になったのがエフライム部族のヌンの子ヨシュアでした。そのヨシュアに次ぐ立場だったのがユダ部族のエフネの子カレブで、この二人だけが約束の地への偵察隊の中で信仰的な表明をしていました(民13章)。
このエフライムとユダの二部族は協力して約束の地に入っていきました。当初はヨシュアに引き続きエフライムが主導権を取っていたようで、礼拝の中心地はエフライム部族の領地の中のシロでした。そこに出エジプト以来の契約の箱が安置されていました。
しかし、サムエルの師であるエリの時代に契約の箱は戦争に敗れペリシテに奪われていました(Ⅰサムエル4章)。それから、契約の箱がイスラエルに戻るのはユダ族出身のダビデ王の時代でした(Ⅱサムエル6章)。ダビデ王は神様の御心にかなったので、神様はユダ部族のダビデ家と契約を結ばれ(Ⅱサムエル7章)、その子ソロモンの時にエルサレムに神殿が建てられた。
後にソロモンの子レハブアム王の時代にヤロブアムによって北十部族が反旗を翻しました。ヤロブアムはエフライム部族のシェケムに住んでいましたから、おそらくそれはエフライムの正当性の主張だったのかもしれません。そして、ユダと袂を分つために自分たちで宗教活動を起こしたが、それが結果として偶像礼拝につながり、神様からの裁きへと突き進んでいってしまいました。
歴史からの教訓「先祖たちのようにかたくなで逆らうものになってはいけない」
36,しかしまた彼らは、その口で神を欺き、その舌で神に偽りを言った。
37,彼らの心は神に誠実でなく、神の契約にも忠実でなかった。
38,しかし、あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押さえ、憤りのすべてをかき立てられはしなかった。
39,神は、彼らが肉にすぎず、吹き去れば、返って来ない風であることを心に留めてくださった。
この78篇はエフライムに代表される北イスラエルの不信仰への批判が中心ですが、その不信仰は決してエフライム部族から始まった訳ではありません。出エジプトから、つまり全イスラエルの先祖たちから始まっていたのです。大いなる出エジプトの奇跡を見ていながら17節「神に罪を犯し、いと高き方に逆らった」とあるように、不信仰は分裂王国以前の国家成立時点からずっと続いていました。
その罪とは「神は荒野のなかで食事を備えることができるか」(19)という際限ない欲望によって神様を試みる姿勢でした。荒野はその神の奇跡と人間の不信仰の繰り返しでした。それにも関わらず神様は滅ぼされなかった(38、39)。不信仰による神への反逆は神を試みることであり、神様の心を痛めること(40、41)、それにも関わらず神様は羊の群れを牧するように導いてくださり(52)、約束の地に導いてくださったのです。
しかし、約束の地でもまた「いと高き神を試み、先祖たちのように神に逆らった」(56、57)。その結果、礼拝の中心地であったエフライムの領地であるシロを見放されました(60)。これは契約の箱を奪われたことで明らかになりました。そして、ダビデの時に契約の箱が戻ってきて、「エフライムーシロ」から「ユダーエルサレム」へと神様の選びは移っていったのです。ダビデは神様の心にかなっていたからです。
結局ユダも同じ道を辿り、選びはどうなったか…
67,それで、ヨセフの天幕を捨て、エフライム族をお選びにならず、
68,ユダ族を選び、主が愛されたシオンの山を、選ばれた。
69,主はその聖所を、高い天のように、ご自分が永遠に基を据えた堅い地のように、お建てになった。
70,主はまた、しもべダビデを選び、羊のおりから彼を召し、
71,乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れて来て、御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを牧するようにされた。
72,彼は、正しい心で彼らを牧し、英知の手で彼らを導いた。
この詩篇78篇が作られたのはかなり古い時代かもしれませんが、詩篇集としてまとめられたのは捕囚期以後なのは間違いないと思われます。すると、この詩篇78篇をユダ部族の人々はどのような思いで読んだのだろうかと考えるのです。というのも、結局自分たちユダ部族もエフライム同様に神に逆らい不信仰の道をたどってバビロンによって滅ぼされたからです。
エフライムもダメでしたが、ユダもダメだったのです。それにも関わらず、なお捕囚から帰還して神殿を再建することができた。つまり、なおダビデ以来のユダ部族の選びが変わっていないというしるしでした。それは不思議です。エフライムが選びから外れ、ユダに移ったのなら、かたくなだったユダもまた選びから外れてもおかしくありませんでした。
それは、ユダのなかに悔い改めが起こったことがあるかもしれませんが、それだけとはとても思えません。不思議ですが、神様はなおユダを選び続けてくださっている。それを思うと、まさに選びは「昔からのなぞ」(2)であり、選ばれた自分たちは値しないものであることを痛感します。それはただ「なぞ」なのです。
神の選びは本来、人を謙虚にさせるものです。値しないものが選ばれたことを実感するからです。しかし、人はすぐ傲慢になる。そして自分の選びを自分の実力によるものと勘違いをしてしまう。そして、傲慢になるときに、神様から離れてしまう。ユダ部族のユダヤ人もまた次第に選びの民というところに傲慢になってしまいました。しかし、バプテスマのヨハネが語ったように神は「石ころからでもアブラハムの子孫は起こせる」(マタイ3:9)。それでもユダヤ人は逆らい続け、ついにはメシアを殺してしまった。その結果、新しい選びの民として信仰告白に基づくメシア共同体である教会が誕生したのです。
新約の時代の私たちも選ばれ救われたことの理由は「なぞ」です。確かに自分の口で信仰告白しました。しかし、歴史の教会を見れば何度も神様から離れ、御心を痛ませてきたのは間違いありません。にも関わらず、神様は教会を選び続けてくださっている。それを思うと、ただ恵みでしかない。そのことに謙虚でありたいと思うのです。そして、私たちも心をかたくなにすればどうなるかわからないという恐れを持ちたいと思います。神を恐れ、今受けている恵みを賛美し感謝し続けるものとさせていただきましょう。