詩篇79篇 アサフの賛歌

1,神よ。国々は、ご自身のものである地に侵入し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを廃墟としました。

2,彼らは、あなたのしもべたちのしかばねを空の鳥のえじきとし、あなたの聖徒たちの肉を野の獣に与え、

3,聖徒たちの血を、エルサレムの回りに、水のように注ぎ出しました。彼らを葬る者もいません。

4,私たちは隣人のそしりとなり、回りの者のあざけりとなり、笑いぐさとなりました。

〜捕囚時代、エルサレムに残されて…〜

この詩篇79篇はエルサレム陥落後、バビロンに連れて行かれなかったレビ人であるアサフの子によるものと考えられます。戦争に敗れ故郷からはるか遠い異国バビロンに連れて行かれることは悲劇でしたが、詩人のように廃墟となったエルサレムに残されることも地獄でした。

エルサレムは徹底的に破壊され、戦争で殺された人たちを葬る人もおらず、その遺体は野ざらしになっている。そして、隣国の人々から「お前の神はどこにいる?」と馬鹿にされながらもなお、そこで生きていかねばならないのです。

エルサレムの優秀な人材、労働力として使える人材はバビロンに連れて行かれ、残っているのは連れて行く価値がないと思われた老人や病人、技術を持たない人たちだけだったのです。詩人が連れて行かれなかった理由はわかりません。けれど、残されたものの悲痛な叫びがここにはあります。

 

〜「いつまで続くのですか!」と必死に訴える〜 

5,主よ。いつまででしょうか。あなたは、いつまでもお怒りなのでしょうか。いつまで、あなたのねたみは火のように燃えるのでしょうか。

6,どうか、あなたを知らない国々に、御名を呼び求めない王国の上に、あなたの激しい憤りを注ぎ出してください。

7,彼らはヤコブを食い尽くし、その住む所を荒らしたからです。

8,先祖たちの咎を、私たちのものとして、思い出さないでください。あなたのあわれみが、すみやかに、私たちを迎えますように。私たちは、ひどくおとしめられていますから。

詩人はこの悲惨な状況は先祖の罪の故の神の怒りであると理解しています。だから、破壊されるのは仕方ない。けれども、もう破壊されてしばらく経っているのに、回復の兆候が見えない。何年経っても誰も復興に手をつけられない廃墟となった聖都エルサレム。捕囚に連れられていった民も帰ってくる気配がない。

預言者エレミヤは捕囚の人々に「家を建てて住み着き…その町の繁栄を祈れ」との主の言葉を伝えました。そして、捕囚期間は70年と告げられた。それは捕囚の民にとって絶望だったのか、希望だったのかはわかりません。異教の都バビロンでユダヤ人として生きていくのも辛いでしょう。しかし、エルサレムに残されて廃墟の中で「神の怒り」のあとを見続ける人々もまた辛かっただろうと感じます。

だからこそ、詩人は「先祖たちの咎を、私たちのものとして思い出さないでください」と祈ります。そして、憐れみを求める。以前のような繁栄でなくてもいい。けれど、少なくともこの廃墟となったままの都が少なくとも回復してほしい。廃墟はいつまでも神の怒りが収まっていないように感じられたことでしょうから。

 

〜「受けたそしりの七倍の復讐を!」という怒りの訴え〜

9,私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。

10,なぜ、国々は、「彼らの神はどこにいるのか」と言うのでしょう。あなたのしもべたちの、流された血の復讐が、私たちの目の前で、国々に思い知らされますように。

11,捕らわれ人のうめきが御前に届きますように。あなたの偉大な力によって、死に定められた人々を生きながらえさせてください。

12,主よ。あなたをそしった、そのそしりの七倍を、私たちの隣人らの胸に返してください。

13,そうすれば、あなたの民、あなたの牧場の羊である私たちは、とこしえまでも、あなたに感謝し、代々限りなくあなたの誉れを語り告げましょう。

詩人は回復を祈っていますが、それだけではなく今隣国から受けている屈辱的な扱いへの報復を求めています。「彼らの神はどこにいるのか」という嘲りを受け続けてきて、それに仕返しをして欲しいというのです。そして、そのように報復が敵に臨むと信じて、感謝の先取りをしてこの詩篇は閉じられます。

 

〜自己中心的で幼く感じる詩篇だが…〜 

この詩篇は読んでいて、正直あまりいい感じがしませんでした。というのも、敵への憎しみが強いのと、先祖や自分たちの罪について認めはしても何か悔い改めている様子があまり感じられないからです。何かとても自己中心的で幼い、そんな感じがします。自分のしたことをあまり顧みず嫌な目にあったことを必死に訴えていてまるで子どものように思ってしまいます。

けれども、この自己中心的に感じる祈りですが、聖書を読んでいると、この祈りは聞かれていると知ります。エズラ記を読むと捕囚から数十年後、神殿再建のために捕囚から人々が帰還します。そして、帰還してきた人々と共にエルサレム神殿の土台が再び据えられるのですが、その時にこの詩篇79篇の詩人と繋がりのあるであろう「アサフの子ら」がシンバルを持って賛美しているのです!

彼らは歌います「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもエルサレムに」(エズラ3:11)と。恵みとは、一方的な神様から与えられたものです。「悔い改めたから良くしてやる」は恵みではなく、報酬です。恵みは相手の状況によらず神様が動かされて行われるもの。何かこの詩篇はそのことをリアルに感じさせてくれます。

 

〜幼いように思われても、「あなた」と神様に差し向かい続ける〜

この詩篇はもちろん問題がない訳ではありません。罪認識、敵への報復など新約の観点からは決して妥当と思えないことは確かにあります。けれど、それらを脇においても、詩人が神様に「あなた!」と正面から向き合う姿からは教えられることがあるのです。

究極的には、どんな感情的な祈りであろうと許されているのです。というよりも許されない祈りなんてないのだと思います。悔しい思いをしたらそれをそのままぶつけていい。憎かったら憎いと正直に祈っていい。大事なことは、神様に感情を隠さないことです。

神様に本当は言いたいことがあったのに、気持ちをぶつけず顔を伏せてしまったカインを思い出します。カインは顔を伏せて神様に感情をぶつけなかった結果、筋違いにも弟を憎んで殺してしまったのです。

だから、どんな感情であろうとも神様にぶつけていい神様はそれを願っておられる。私たちに詩篇79篇がなおも神のことばとして与えられている意味を思います。それは、どんな祈りも神様は受けとめてくださるということです。だから、そのままの感情を神様の前に注ぎだし続けたいと祈られます。