詩篇80篇
1,イスラエルの牧者よ。聞いてください。ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ。光を放ってください。ケルビムの上の御座に着いておられる方よ。
2,エフライムとベニヤミンとマナセの前で、御力を呼びさまし、私たちを救うために来てください。
3,神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。
弟たちの回復のための兄の祈り(1〜3)
この詩篇は弟たちの危機に際して、必死にとりなしをする兄の祈りです。
詩人は「エフライム、ベニヤミン、マナセ」の救いのために祈ります。これは、イスラエルの中での末の弟たちの部族です。弟たちの部族が苦しむ中で、兄であり祭司であるレビ部族のアサフが弟のために祈っているのがこの詩篇90篇です。
4,万軍の神、主よ。いつまで、あなたの民の祈りに怒りを燃やしておられるのでしょう。
5,あなたは彼らに涙のパンを食べさせ、あふれる涙を飲ませられました。
6,あなたは、私たちを隣人らの争いの的とし、私たちの敵は敵で、私たちをあざけっています。
7,万軍の神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。
「エフライム、ベニヤミン、マナセ」この三部族に限らずイスラエルは神様に対して罪を犯し続けました。聖書は今、弟たちの国家が苦難にあっているのは神様への罪のゆえであると語ります。
しかし、それでも、敵からあざけられたままであってはいけない。神様が怒りをおさめ、もう一度回復してくださるようにと祈ります。
「ぶどうの木のたとえ」を逆手にとって(4〜13)
8,あなたは、エジプトから、ぶどうの木を携え出し、国々を追い出して、それを植えられました。
9,あなたがそのために、地を切り開かれたので、ぶどうの木は深く根を張り、地にはびこりました。
10,山々もその影におおわれ、神の杉の木もその大枝におおわれました。
11,ぶどうの木はその枝を海にまで、若枝をあの川にまで伸ばしました。
12,なぜ、あなたは、石垣を破り、道を行くすべての者に、その実を摘み取らせなさるのですか。
13,林のいのししはこれを食い荒らし、野に群がるものも、これを食べます。
兄である詩人はここで「ぶどうの木」のたとえを語りだします。この「ぶどうの木、ぶどう園」のたとえは、神様が預言者を通してイスラエルの状況を語るたとえでした。例えば預言者イザヤは、神様がせっかくイスラエルのためにぶどう園をつくるように全てのことを整えたのに、神様の願ったような生き方がされていないと責任を問うために「ぶどうの木」を持ち出します(イザヤ5章)。またイエス様も「ぶどう園のたとえ」(マタイ21:33〜46)を用いて、ユダヤ人が預言者や御子を拒絶していると非難します。ぶどう園やぶどうの木と聞くと、人々の責任が追求されるのが普通でした。
しかし、詩人はここで逆に神様の責任を問うているのです。「なぜ、あなたは石垣を破り、道を行くすべての者に、その実を摘み取らせるのですか」(12)は、まさにぶどう園の主人である神様について責めているのだ。「今ぶどう園がボロボロになっているのは、あなたの責任です」と神様を追及しているのです。創設者の責任を迫るとはなんとも大胆です。
神の方向転換を求める(14〜19)
14,万軍の神よ。どうか、帰って来てください。天から目を注ぎ、よく見てください。そして、このぶどうの木を育ててください。
15,また、あなたの右の手が植えた苗と、ご自分のために強くされた枝とを。
16,それは火で焼かれ、切り倒されました。彼らは、御顔のとがめによって、滅びるのです。
17,あなたの右の手の人の上に、御手が、ご自分のため強くされた人の子の上に、御手がありますように。
18,そうすれば、私たちはあなたを裏切りません。私たちを生かしてください。私たちは御名を呼び求めます。
19,万軍の神、主よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。
この「ぶどうの木」は、神様によってエジプトから携え出されたものであるから、神様に「よく見て、育ててください」(14)と迫り続けます
もちろん、詩人は自分たちが悪くなかったと言っているわけではありません。「御顔のとがめ」(16)によって弟たち北イスラエルが滅んだことを知っています。それでも、「あなたの御手がありますように」(17)と祈ります。なぜなら、神様の助けなくして回復はないことを知っているからです。
人間が努力をして回復などできない。神様が怒りをおさめ、回復に舵を切ってくれない限り、人は変われません。だから「どうか帰って来てください」と祈っているのです。
それはいわば「神様の方向転換」を求めている。悔い改めは、人間が神様への方向転換することです。ここでは、まるで詩人が神様に悔い改めを迫っているようです。
詩人は知っています。神様の方向転換無くして、人間の方向転換はできないということを。そして、神様が方向転換をしてくださるのならば、自分たちは救われると信じています。人間の自分の力での悔い改めはある意味信じられません。けれど、神様の方向転換はそれが起これば必ず恵みとなると信じているのです。
これが祭司、これが執りなしの祈り
この祈りは大胆です。「ぶどうの木のたとえ」を逆手に取り、神様の側に方向転換を求めるというのは、「そんなふうに祈っていいの?」と思わせられます。しかし、この祈りが詩篇におさめられていること、この祈りを後の世代も祈り続けていったことの意味の深さを覚えます。
その背後にあるのは「弟たちが滅んではいけない」という切実な思いです。「あいつらが滅んだのは自業自得だ」と冷たく切り捨てはしないのです。たとえ罪を犯したゆえに苦難にあっていたとしても、そのままではいけない。「弟たちを回復させてください」と切に祈り続ける。とりなしの祈りは兄弟への愛です。
「神様、あなたの造られた人間たちです、育ててください」これは今も私たちの祈りではないでしょうか。「あいつは滅んでも仕方ない」などと思うのではなく、「あの人も兄弟だ、滅んではいけない」と祈るものとさせていただきたいと思います。そして、神様に迫っていく。「あなたの被造物です!」と。それは責任転嫁ではありません。けれど、私たち人間は自分で何かができるほど強くない。だからこそ、祈ります。隣人のため、世界のために。神様が御手を伸ばして育ててくださることを。そうすれば、私たちはぶどう園の管理に励めるでしょう。だからこの詩人のように時に大胆にも祈り続けます。