悪者が最後まで裁かれず、栄えている現実
詩篇73篇 アサフの賛歌
1,まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。
2,しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。
3,それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。
4,彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。
詩人は葛藤していました。神様は正しいものを祝福し、悪者どもを裁かれると信じていたのに、現実はそうなっていないからです。驕り高ぶるものたちは何の苦痛もなく死んでいく。生きているうちに、苦しみのたうち回るような悪者はほとんどいない。
信仰を失ってしまいそうだった過去
13,確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。
14,私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。
15,もしも私が、「このままを述べよう」と言ったなら、確かに私は、あなたの子らの世代の者を裏切ったことだろう。
「もう神など信じない」そう言いたくなった過去があるのです。悪者は神様をないがしろにしているに何の裁きもなく死んでいく。信仰生活を守っていても、自分の状況は苦しいばかり。信仰生活が虚しくなってくるのです。
本当の最後があることを知った
17,私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。
18,まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。
そんな信仰を失ってしまいそうな時に、大きな変化がありました。礼拝のために神殿の聖所に入った時に、見えたのです。本当の「最後」があることを。この地上で安らかに悪者が死んだとしても、それが最後ではない。本当の最後はその先にある。そして、この地上で地位も名誉も財産もあり盤石に見えた悪者たちが、実は裁きと隣り合わせになっている本当の現実です。地上が全てではない、その先があることを、頭では知っていました。しかし、それとは違う腹の底からその現実が見えたのです。
不信仰な私の手を掴んでいてくださった神様
21,私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、
22,私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。
23,しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。
24,あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。
悪者の最後が見えた時に、今度は自分の姿が見えてきます。それは、「神などいない」となりそうになっていた自分の姿です。それは獣のようだった。言葉も通じず、愚かになっていた。けれど、そんなどうしようもない自分の手を神様はしっかりつかまえていてくださった。つかまえていてくださったから、今とどまる事ができている。不信仰な自分に注がれた憐れみに感謝が溢れます。
だからこそ、最後の告白に向かいます。
28,しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。
〜主が私の手を取っていてくださる〜
「何やっているんだろう」と思う時があります。悪者が裁かれもせず栄えている現実がある。神様信じない人の方が幸せに見える時がある。こんな神様を無視している時代に、何をやっているのだろうと。そして虚しく形ばかりの信仰をしてしまう。
それでも、その形ばかりだった信仰生活の先に、ある時突然「そうだったのか!」という迫ってくるものがあります。それは公式のように説明できるものではありませんし、個人によって違います。キャンプのような特別な集会の時かもしれませんし、もっと普通の礼拝の一時かもしれません。それでも、あるのです。「そうだったのか」と見える時が。
それが見えると、信仰のレベルが上がったわけではありません。むしろ、愚かだった時の自分の酷さ、それにも関わらずひどい時に主が離さないでいてくれた憐れみを思うのです。そう、ただ憐れみだったのだとわかる。
私がひどい不信仰の時にも見捨てなかった神様がわかると、本当に嬉しくなります。その幸せはこの世が与えてくれるのとは全く別の平安を与えてくれます。
今、苦しい思いをしている方がおられるかもしれません。今は感じられないかもしれませんが、そのあなたの手を主は握っていてくださる。その目が開かれて、つかんでいてくださる主が見えますように。