こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田です。今年の4月から教会のブログを開始しました。聖書のお話や教会での活動や、牧師が読んでいる本などの紹介をしています。
私たちの教会では今年度より「神を知る」ために読書会を開くことにしました。4月からNTライトという神学者の書いた「神とパンデミック」という本を教会の方と一緒に読んでいきます。短い本ですが、関連する本も取り上げながら、多面的に理解できるようになれればと願っています。
今回はこの日曜日に行った読書会の後半部分、「2旧約聖書から読み取る」について取り上げ、関連する書籍と合わせて学びたいと思います。
◯聖書は因果応報的なことを語っているだろうか?
コロナ禍に限らず自然災害が起こると「これは人間の罪ゆえの神の裁きだ!」という声を聞きます。それは果たして、聖書が語る神様のあり方なのか。そこについて私たちは知りたいと願います。
(1)人間の罪ゆえに起こる悲劇は確かにある〜バビロン捕囚〜
旧約聖書における最大の災禍はバビロン捕囚です。バビロン捕囚とは、BC586年ごろに当時の大帝国であるバビロン帝国によってイスラエルの南側の南ユダ王国が破壊され、指導的な立場にいた人たちがバビロン帝国に強制移住させ得られてしまった出来事です。
バビロン捕囚はユダヤ人のアイデンティティーをぐらつかせる大惨事でした。ユダヤ人が自分たちが神の民だと信じることができた以下の3要素を一気に失ってしまった出来事でした。
「土地ーアブラハムに与えられた神様の約束」
「王制ー神様が立てられた地上での自らの代務者」
「神殿のあるエルサレムー見えざる神様の臨在の象徴」
(ジュリアス・スコット「中間時代のユダヤ世界」)
旧約聖書の哀歌やダニエル書をはじめ預言者たちは、このバビロン捕囚がイスラエルの罪ゆえの出来事であると語ります。この点において、罪とその結果の災禍ということは確かに語られています。
そのほか、詩篇1篇などには、正しい人は繁栄し、悪い人はひどい終わり方を迎えると語ります。当たり前ですが、悪いことをした結果、その償いをしなければいけないことはあります。不倫をしてしまえば家族は壊れます。物を盗めば捕まります。これは古今東西変わらない事実です。
(2)すべての災禍が人間の罪ゆえではないし、人間の罪が裁かれないケースがあり、全くの不条理もある
しかし、この「悪いことをすれば罰がある」というケースが当てはまらないことがあります。旧約聖書の中で、一人息子を失ったやもめが「自分が預言者エリヤを家に泊めてしまったからだ」と嘆いたことに対して、エリヤは息子をよみがえらせることでその考えが間違っていたことを示しました(Ⅰ列王記17:18)。全ての悲劇を自分の何か落ち度によると考えることは危険です。
また、逆に悪いことをしていても裁かれていないケースもあります。たくさんの詩篇(73篇、44篇、88篇、89篇)が、悪者が栄えて、正しいものが苦しい目にあっている現状で嘆き、叫んでいます。因果応報の考えでいけば、罰が降っていなければいけない人たちが全く裁かれておらず私腹を肥していることはやはり古今東西横行している事実です。
さらに自分の罪のせいでもなく、誰かの罪のせいでもない、ただただ不条理に悲劇が訪れることを語っているのが、ヨブ記です。ヨブに訪れた悲劇は彼のせいではないのですが、周囲は「悔い改めよ」と迫ってくる。今のコロナ禍と重なる状況があります。ヨブ自身には、最後まで何が起こっているかわかりません。その未解決こそ重要であるとライトは語ります。
◯聖書を貫く大きな二つのレベルのストーリー
このように聖書は必ずしもただ因果応報を語っているわけではありません。しかし、すると聖書は一体、罪の問題や悪の問題にどのように語っているのでしょうか。ライトは聖書を貫く二つのストーリーがあることを語ります。
(1)「被造物回復のために一つの民を選ぶ」ストーリー。
その1番のストーリーは、イスラエルのストーリーです。アダムとエバによって入ってきた罪とその結果の呪いの世界を回復すべく、神様はアブラハムという一人の人を選ばれました。そして、彼とその子孫を通してこの世界を「呪いから祝福に」変えることを計画されました。これが大きな聖書の軸となるストーリーです。
しかし、イスラエルはこの神様からの使命(呪いを祝福に変える)に失敗してしまいました。彼らもまた「偶像礼拝と不正」の罪を犯し、その行き着く先が捕囚でした。旧約聖書はこの使命に立ち返るようにイスラエルに呼びかけますが、彼らにはそれができずメシアの到来に期待がかかっていきます。
ライトは次のように語っています。
「全ての人は『偶像崇拝と不正』という原型ウィルスの保菌者であるために、捕囚の暗闇のうちをいかにして通らなければならなかったかを物語る。」
(2)神の手による良き創造を破壊しようとする暗闇の力のストーリー
しかし、旧約聖書はこのストーリーと並ぶ大事なもう一つのレベルのストーリーがあります。それが、神様の創造された良き世界を破壊しようとする暗闇の力があるというストーリーです。
ライトはこの点に触れるに留まりますが、前回触れましたユダヤ人ラビのクシュナーの「なぜ私だけが苦しむのか」ではさらに創世記1章について踏み込んでいます。
創世記1章の天地創造はただの経緯報告ではなく、「混沌に神が秩序をもたらす」と言う大きなメッセージを語っているというものです。混沌は秩序の反対に位置するもので、この混沌とした状態に「光があれ」と語られました。それから世界が一つ一つの部分がふさわしい位置に置かれていく。秩序が生まれていきました。
これは創世記1章の一つの読み方でありますが、このように「混沌と秩序」は確かに大事な一つのメッセージであると考えられます。そして、秩序のある世界を壊そうとする力が常に働いていることを読み取ることができます。
ライトにしてもクシュナーにしても、この混沌に向かわせようとする力があることが、コロナ禍や理解し難い不条理の出来事の理解の鍵であることを示唆します。
ただこの「暗黒の力」はどこからきたのかとかは理解し難い問題です。そのことに必要以上に考える必要はないとライトもクシュナーも語ります。マタイの福音書の毒麦のたとえでも、毒麦をまいた「敵がいる」ということだけが語られます。良い畑に毒麦をまくものがいる。そのことを知っていればいいのです。
〜「『わかる』と『かわる』」という知の力〜
この旧約聖書の大きなレベルのことを知ることが、何か解決策になるわけではないでしょう。しかし、それでも、「『わかる』と『かわる』」ということがあります。
不条理の出来事に直面したときに、何が問題なのかわからないから私たちは苦悩します。そして、安易な答えに飛びついてしまいます。しかし、その問題の事実を事実として知ることができるだけで行動は変わります。
人は体の不調を覚えていてもその原因がわからない時には不安で心配になります。しかし、その原因がわかれば、たとえすぐに治らない病気であっても、不思議とほっとするものがあります。「私がずっと落ち着きがなかったのは、私が悪いのではなく、ADHDという一つの状態なのだ」とわかるだけで、ほっとして、「ではどうするか」と気持ちを切り替えることができます。
もちろん、すべての病気や災いがわかればほっとすると言っているわけではありません。ライトも語っていますが、わからない時に「嘆くことができる」ということも大事なことです。すでに多くの旧約の信仰者たちが悩んで嘆いています。「嘆いていいんだ」そのことがわかるだけでほっとするものがあります。安心して嘆いていいのです。嘆くことは不信仰ではない。それだけでも落ち着けるものがあります。
私たちもコロナ禍や多くの不条理に直面した時に、聖書の大きな二つのストーリーを覚えることで、見えてくるものがあります。安易な答えではなく、ただ知るだけかも知れません。しかし、知ることは確かに力になります。「『わかる』と『かわる』」のです。
そして、この旧約の大きな物語のレベルを知った上で、新約聖書でイエス様の姿が見えてきます。私たちはこのイエス様にこそ、「わかった上で何をするのか」が見えてきます。次の新約聖書からのイエス様の姿に期待していきたいと思います。