こんにちは。清瀬バプテスト教会の牧師の松田です。今年の4月から教会のブログを開始しました。聖書のお話や教会での活動や、牧師が読んでいる本などの紹介をしています。
私たちの教会では今年度より「神を知る」ために読書会を開くことにしました。4月からNTライトという神学者の書いた「神とパンデミック」という本を教会の方と一緒に読んでいきます。短い本ですが、関連する本なども取り上げながら、多面的に理解できるようになれればと願っています。
今回はこの日曜日に行った読書会の「3 イエスと福音書が教えていること」について取り上げ、関連する書籍と合わせて学びたいと思います。この章は前の章とのつながりなど、やや込み入っていました。要点を整理するために、Q &A方式で考えたいと思います。私なりの要約になりますので、ご了承ください。
Q イエス様も「コロナは神の裁きか、しるしだ!悔い改めよ!」というようなことを言ったのか?
A あるにはあるが、それはバビロン捕囚と重なるユダヤ戦争という神の民のために起こった一大事のためのみ。
当時、塔が倒れて犠牲者が出た時に人々が「犠牲者は罪深かったから死んでしまったのか」という疑問を持った時に、次のように言われた。
ルカ13:1〜9 シロアムの塔の犠牲者
4,また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
5,そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
ここで、イエス様が語られている「悔い改めないと滅びる」というのは、AD70にユダヤ戦争が起こり、エルサレムが神殿から何から何まで破壊された時のことを預言していると言われている。それはエルサレム入城ではっきりする。
ルカ19:41〜44 エルサレム入城
41,エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
42,言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
43,やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
44,そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
しかし、それ以外に「世の終わり」について語られたのは、むしろ逆で「悔い改めよ」ではなく「慌てるな」だった。
マタイの福音書24章
3,イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
4,そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
5,わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
6,また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
Q では、世の終わりには何の「しるし」もないの?
A イエス様ご自身が終わりの時の「しるし」である。
ヘブル人への手紙1章
1,神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
2,この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。…
だからこそ、イエス様な何をなされたか、何を語られたかに注目するのだと語る。福音書で、王であるにも関わらず僕となってくださったイエス様、苦しむものを癒されたイエス様。何か天変地異のなかにしるしを見るのではなく、イエス様のうちに私たちはしるしを見る。
そして、すでに「しるし」であるイエス様による神の国の統治は始まっている。マタイの福音書においてイエス様は復活によって、天においても地においても一才の権威が「すでに」与えられているとことを宣言された。
マタイの福音書28章
16,しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
17,そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
18,イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19,それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20,また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
Q そんなこと言っても、神の国がどうして始まっていると言えるのか?
A 復活によって、最後の敵である死に勝利されたことで、罪と死による支配の終わりが始まっている。
イエス様が死んで終わらず、よみがえられたということは、死というのは究極の出来事ではなくなった。死は絶対に勝てない敵ではなく、死んでも復活するということが分かると、死の正体が見え、必要以上にそれを恐れ奴隷とならなくていい。もはや死はこの世界の最終支配者ではなくなった。イエス様の元で、死の力は打ち破られた。ここに神の国が開始されている。
この観点に立つ現在の理解に有益なのが、ヨハネ11章の「ラザロの死と復活」の出来事だ。イエス様はラザロが死ぬこと、そしてその後ご自身がよみがえらせることを知っている。そのような状況でこの出来事は起こる。
マルタとマリヤが「イエス様がここにいたら死ななかったのに…」「どうして死なないようにしてくれなかったのか」という問いをぶつけられる。これこそ、今のコロナ禍の私たちの叫びでもある。
そこでイエス様はただ泣かれた。友のためにか、死という現実のためにかわからないが、ただ泣かれた。けれど、その後確かにラザロは復活した。
今の私たちが置かれている状況はラザロの墓の前にたたずむ状況なのかもしれない。イエス様によってよみがえることを信じるが、「どうして?」と泣きすがる。そして、その私たちと一緒にイエス様は涙を流される。ライトは最後のまとめでも、ここに戻る。病や死という現実の前で、イエス様に嘆きをぶつけ、イエス様と共に泣く。裁くのではなく、すべきことはイエス様のうちにある。そして、復活にこそ私たちの究極の希望がある。
〜福音書のイエス様を見続ける〜
ここのところはやや込み入っていたので、やや私なりにまとめたところがあります。ただ、ここは教えられることがいっぱいでした。何よりも、ヘブル書で語られているように、終わりの時に、神様はイエス様によって語られたのだということ。だから、私たちは地上で歩まれ、語られたイエス様に目を留めます。
コロナ禍で多くの極端な言説をみると、そこに福音書にイエス様が見えません。旧約の一部を引用したり、新約でも黙示録だけ極端に引用したりしている様子が見受けられます。大事なのは、その考えに福音書のイエス様の姿はあるかということではないでしょうか。
私たち弱い人間はすぐに自分の感情を正当化するために、聖書を用いようとします。しかし、そうではなく、「イエス様はどうだったか」と見つめたいと思うのです。
ある神学者は、聖書を一言でいうのなら「神は人となられた」だと言いました。それは、神は人を救うために世に来てくださった。だから、神様は人を諦めていない。人を裁こうとしてイエス様を遣わされたのではなく、救うために遣わされた。この神の愛に触れる時、私たちは平安のうちを歩めます。神様はもう怒っていない。ビクビクして生きる必要ない。
福音書のイエス様が語られたこと、なされたことを見つめ続け、何をすべきか祈り向き合いたいと思わされます。